원문정보
초록
일본어
1270年高麗武人政権が崩壊され, 對蒙抗争も終決された。三別抄抗争が押えられた直後元国は高麗に本格的な内政干渉を実施した。元國は日本に対しても1․2次征伐を敢行したが失敗した。それにもかかわらず元国は使臣を派遣して日本の入朝を慫慂した。高麗側にも使臣を派遣して日本を説得する一方日本の臣属を勧めた。すると日本支配層たちは高麗を敵国である元国と同一視して外交的交渉はこれ以上進むことができなかった。高麗と日本の外交交渉はもちろん多くの交流も断絶状態に置かれるようになった。高麗の対日外交対応が十分でなかったこと、日本の大陸に対する情勢分析に消極的態度がその理由だった。13世紀末高麗と日本の外交関係は梗塞状態に陥った。さらに麗元聯合軍の日本征伐によって両国の関係は悪化の一途に落ち込んでしまった。 高麗の官僚たちの間には麗日間の梗塞された関係の中で宣撫使とか書状官で日本に派遣されることを忌避する雰囲気が拡散していた。忠烈王18年金有成と郭麟が使臣で自請して日本に向かって出発した。日本へ到着したあとの金有成と郭麟の生死に対して高麗では誰も分からなかったが日本僧侶鉗公が高麗に渡って来て金有成が丁未年(忠烈王33年)7月5日に病気で死んだと伝達することで派遣後の状況を把握することになった。金有成と郭麟の日本抑留事件を通じて両国関係が尖鋭に対立した時高麗国内でも 対日認識が否定的だったのを分かる。13世紀末両国は麗元聯合軍の日本征伐による敵対的な状態だったから外交関係も断絶した。14世紀後半 倭寇などの問題のため平和的な関係よりは対立様相に展開されて相互認識が大きく屈折された。
목차
1. 서론
2. 13세기 高麗의 對日 외교교섭 추이
3. 일본 정벌과 高麗의 對日 외교교섭 변화
4. 결론
참고문헌
