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초록
일본어
淺川巧(1891ー1931)は1914年、植民地支配下の朝鮮に渡り山林關係や朝鮮工芸などの硏究に携わった人物である。そして「民芸」運動の創始者として知られている柳宗悅に大きな影響を与えた人物でもある。本稿では具体的に第Ⅱ章ではテクストとして淺川巧が韓國ではどのように讀まれているのか、そして第Ⅲ章では淺川巧の思想的基盤がどのように形成されているのか、最後の第Ⅳ章では淺川巧の朝鮮認識が世界構造としての彼の民芸論にどのように反映されているのかについての檢討である。淺川巧と柳宗悅ははじめ報告者と硏究者のような關係から始まっているものの、次第に淺川は民芸論において美的価値判斷の基準になる柳の眼(直觀)とある程度距離を保つようになる。それは淺川の民芸論が、朝鮮の陶磁器という道具を通じてその製作․交流․消費のネットワークに參加することによって得られた、朝鮮人との交涉の結果であったからである。このように淺川が朝鮮の民芸品を媒体にして朝鮮人との交涉に成功したとすれば、それはどのように民芸論のなかに投影されているだろうか。本稿では淺川が朝鮮との交涉を、道具という媒体を通じて行っている点に注目している。こうした道具が世界との關係、他者との關係を考える時に重要な手段になるからだ。淺川巧は柳宗悅が主唱した民芸運動の基本理念を誰より徹底しながら、それらを黙々と實踐に移した人物である。社會的に低い身分の陶工が造る陶磁器から、美が生まれた事實を重視していた柳の民芸論は、倫理美學的な方向へ走ってしまう。これに比べて淺川の民芸論は、モノの名称․用途などの實証的な調査に向かう。こうしたモノの調査の過程で、淺川は多くの朝鮮人からの協力を得る。そして民芸調査において朝鮮人との交涉が何よりも重要だという事實を發見する。淺川はモノをとおしての朝鮮人との交涉をするなかで留保的な視線を獲得することができたのである。
목차
Ⅱ. テクストとしての淺川巧
Ⅲ. 淺川巧の思想的基盤
Ⅳ. 世界構造としての淺川巧の民芸論
Ⅴ. 結論
【參考文獻】
<要旨>