earticle

논문검색

【日本文學】

島崎藤村の初期小說に見る「家族」の樣相-『爺』『老孃』『水彩畵家』を中心に-

원문정보

도기등촌の초기소설に견る「가족」の양상-『야』『로양』『수채화가』を중심に-

蔡永姙

피인용수 : 0(자료제공 : 네이버학술정보)

초록

일본어

藤村が小說を書くに当たってどのような問題意識を持っていたか。藤村の初期短編『綠葉集』(明治40年)に收錄されている『爺』(明治36)、『老孃』(明治36)、『水彩畵家』(明治36)の『破戒』が書かれる前の短編を中心に、作品に現れた家族の樣相を中心軸に檢討した。『綠葉集』に收錄されている藤村の初小說『旧主人』『藁草履』では天皇描寫が姦通場面と連動していることから、地方の田舍の中心に及ぶ明治近代の勢いにより価値体系の規範を逸脫する人物の明治天皇制社會の価値体系の枠組みに抵触するという構図で当代社會の歪んだ姿が多層的に浮上している。續いて本論で取り上げた『老孃』『水彩畵家』では『爺』を間にし、天皇描寫があった前2作品とは違いを見せ、『老孃』では「結婚するか、それとも結婚するか」の女性の生き方の問題が提示され、『水彩畵家』では田舍に近代的な生を生きようとする「新しい家庭」における問題が描かれている。前者と共通している点は社會の規範からはみでる
心の內部が對比されつつ「罪」意識が問われているところである。違いは、前者が下層階層の側面から問題を見ているならば、後者は知識人の近代的な生き方を追求する「世間靑年」の抱える問題であった。藤村の社會の矛盾を捉える視線の構図は、明治30年代初頭の社會において、近代を「極端」に追求することの限界を「家」「家庭」の場において掘り下げているという特徵が見られる。『老孃』のテーマが近代的な知識人が前近代的な「家」や近代的な「家庭」で表される社會も否定する生き方、すなわち近代知識人の「破壞の思想」という否定に否定を生きる生き方の限界を直視しているとすれば、『水彩畵家』では「破壞の思想」を止揚し、內的葛藤の共有という和解の模索がされている。さらにこの点は、近代を否定して生きた「父」の問題と重ねられており、前近代と近代の衝突という後の藤村が掘り下げている「父」の問題の構図が仄めかされており、近代と前近代の相克、人間の自然性と社會の關係性の境目に藤村の問題意識が向けられていることが導き出された。

목차

はじめに
 Ⅰ. 『爺』(明治36年1月、『新天地』) -幻の親子の絆-
 Ⅱ. 『老孃』(明治36年6月、『太陽』) -「家」と「新しき家庭」の問題-
  1. 「家」に向けられる批判
  2. 「新しき家庭」に向けられる批判
  3. 「隱れ家」の可能性
 Ⅲ. 『水彩畵家』(明治37年1月、『新小說』) -「新しい家庭」の行方-
  1. 「新しい思想」の展開
  2. 「事業」と「戀」の間
  3. 伝吉の彷徨の行方
 終わりに
 【參考文獻】
 <要旨>

저자정보

  • 蔡永姙 채영임. 한밭대학교강사, 日本文學

참고문헌

자료제공 : 네이버학술정보

    함께 이용한 논문

      ※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

      • 5,100원

      0개의 논문이 장바구니에 담겼습니다.