원문정보
초록
일본어
從來、文學テキストとして古事記と日本書紀の兩者を比較する場合、特に古事記の方に重点が置かれてきた。それは多くの歌謠を含む多彩な物語が、当時の日本語に充實した、いわゆる変体漢文によって含まれているからに違いない。歌謠物語は單に歌謠と物語の共存を表わす述語ではなく、物語と歌謠との結びつきが緊密であり、歌が物語の展開に不可分に機能している物語のことなのである。本稿は、ヤマトタケルの歌謠物語、その中でも特に弟橘比賣の入水物語を取り上げて、古事記における‘カタリ’と‘ウタ’という樣式の問題、それによって可能になる古事記の表現樣式としての歌謠物語の方法を考察することに目的がある。そもそも‘カタリ’によって表現される叙事性と、‘ウタ’の抒情性は相容れないものである。しかし、散文と韻文という異なる樣式によって構成されている歌謠物語は、‘カタリ’と‘ウタ’の、特に‘ウタ’のもつ含蓄性や、それによって期待される抒情の廣がりを目指して、最初から意図され試みられた新しい‘カタリ’の方法である。物語の中に歌を挿入することがただちに文學的効果を高めるとは言えない。ここに一字一音式の仮名で書き表した歌を、段落の綴じめ的な位置に据えることで一つの物語を締めくくるという、倭建命の歌謠物語の方法が問われるのである。‘辭’的表現に依存しないことによって、ことがらの叙述の積み重ねにおいて可能になる散文表現と、これとは逆に‘辭’的表現を徹底することによって達成される、歌という表現の意識化を古事記の表現、ひいては古事記の中の物語と歌という表現の問題として捉えなければならない。弟橘比賣の入水物語は、弟橘比賣の死によって段落づけられ、倭建命物語全体は倭建命の死によって括られている。古事記は物語の結末の部分を死をもって語ることによって、物語全体に重苦しい抒情性を漂わせている。弟橘比賣の歌は‘の’‘に’‘の’‘はも’などの‘辭’のことばの滑らかな連結によって、抒情詩的情趣を感じさせる情意が統一されており、しかも結句を‘ハモ’という助詞で結ぶことによって、强い哀惜の念に基づき過去を回想しつつ、離れて行かざるを得ない狀況を嘆く。この歌によって弟橘比賣の死に對する悲哀感は一層高められ、一つの物語はクライマックスを迎えるのである。ひとつの物語を歌によって締め括るという方法は、和歌の世界で育まれた抒情の世界が前提になってからこそ可能になる、高度な文學的技法である。天皇の世界の確立という大きなテーマを倭建命の悲運の歌謠物語として語る古事記がある。ここに古事記完成者の文芸的趣向や、創作的意図が强く感じられると同時に、これこそ古事記の目指した倭建命物語の方法であった。
목차
II. 고사기의 用字法(용자법)과 가요
III. 야마토 다케루 이야기의 구조
IV. 야마토 다케루 이야기의 방법
V. 이야기에 있어서 가요의 의미
VI. 맺음말
참고문헌
일문요지