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오오카 쇼헤이[大岡昇平]『들불(野火)』론-가능성으로서의 신-

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大岡昇平「野火」論 -可能性としての神-

신지숙

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초록

일본어

「もし私の現在の偶然を必然と変える術ありとすれば、それはあの權力のために偶然を强制された生活と、現在の生活とを繫げることであろう。だから私はこの手記を書いているのである。」(37章「狂人日記」) 「野火」の主人公田村が明かしている手記執筆の意図である。戰場での自分の体驗の意味を發見したいという、この手記執筆の意図は、主題に直結する問題として批評家や硏究者に無批判的に受容され、そして、彼なりの意味、意味としての神を發見したと結論づけている論が多い。作品もまた一見そういう指摘を裏付けているようである。 しかし、本稿では、この執筆意図は出發点に問題を孕んでいること、また、体驗の解釋を進める過程においても葛藤が露見し、抑壓が働いていることを檢証し、最終章の結末に五回も繰り返されている「もし」は意味の發見のアポリアを露呈していることを論究した。 出發点の問題は、「あの權力のために偶然を强制された生活」であったのに、「あの權力」を問うことは排除し、權力を超える存在、つまり神の存在によって意味を發見しようとしたことである。この出發における矛盾が悲劇的な結末を予想させる。「權力」によって偶然を强制されたなら、その「權力」との精算によって現在以降の意味を追究すべきであった。しかし田村は過去の意味の發見なしには現在の自分の存在も意味がないと過去の意味に拘泥する。權力を超える意味の發見を欲望する田村は戰場での自我分裂の体驗を神の介入として解釋した。しかし、合理と快樂の世界の住人であった田村は神の介入ということに對する疑問も拂拭できなかった。意味への欲望は理性との葛藤、理性の抑壓によって進められていったのである。押し沈められていたものはついに水面に浮上する。人肉を食べなかったという自分の義を打出し、神のない意味の發見を欲するようになるのである。しかし、理性的な推論は他の理性的な推論を呼び起さざるを得ない。自分が銃をもって野火つまり人間のいる所を探しまわったのは人肉を食べたいという欲求が自分を動かしていたからではないのか、という推論である。また作品の中で田村は意識していないが、人肉を食べなかったのが自分の意志によるのなら、戰場に送られて以來自分の生活は任意、偶然であったという訴えとも矛盾が生じる。作家はこれに氣づいていた。結局、意味の發見のためには可能性としての神の存在に戻らざるを得ない。しかし、田村は神の告發と救いの前で「もし」を連發しているのである。

목차

Ⅰ. 서론
 Ⅱ. 수기 집필의 의도
 Ⅲ. 자아분열의 해석- 신의 개입에의 욕망
 Ⅳ. 선악의 투쟁- 신의 몸을 향하여 
 Ⅴ. 의미 발견의 아포리아
 Ⅵ. 결론
 【參考文獻】
 <要旨>

저자정보

  • 신지숙 계명대학교 교수, 일본근대문학

참고문헌

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