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【日本文學】

殺生を忌避する聖德太子像形成の背景 -『聖德太子伝曆』と無仏法處の言說 -

원문정보

살생を기피する성덕태자상형성の배경 -『성덕태자전력』と무불법처の언설 -

松本眞輔

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초록

일본어

『聖德太子伝曆』における、殺生を避ける太子像の生まれてきた背景を探る。そこには、大きく三つの理由が考えられる。
第一は、先行するモデルの存在である。仏典や中國史書には、太子の原型になりうる人物があり、『伝曆』はこれによって、太子を權威づけようとしたと考えられる。具体的には、仏陀や中國皇帝に太子をなぞらえた可能性がある。
第二は、『伝曆』が理想とした爲政者が、殺生を避ける人物だったという点である。これは、『伝曆』が成立した十世紀頃の思想狀況を背景にしたもので、『伝曆』の太子像も、こうした時代背景と無關係ではないだろう。
第三は、慧思再誕說に見る殺生の問題である。『伝曆』には、太子が慧思の生まれ変わりであるという前提がある。この說は、『伝曆』成立以前に成立していたものであるが、そこでは、殺生の行われている日本の衆生を仏法に導くという契約を、慧思と達磨が交わしたとされていた。『七代記』等に記されたこの說話は、慧思が殺生を止めさせるために日本に生まれたという內容を持っている。この慧思再誕說を前提に編まれたのが『伝曆』であり、殺生を避ける太子像は、これに對する一つの回答であったように思われる。
本稿で特に重視するのは、第三点目である。『伝曆』が依據した『七代記』等には、日本が「無仏法處」であるとされ、そのイメージは、殺生が恒常的に行われている國、というものであった。こうしたイメージは、中國に存在していたものと考えられ、慧思再誕說を唱えた中國僧思託なども、こうした言說を自著に書き留めている。『伝曆』は、こうした言說を念頭におきつつ、「無仏法處」を克服した太子を描こうとしたのではないかと考えられる。

목차

一 はじめに
二 太子のモデル
三 『伝曆』と殺生禁斷
四 『大唐伝戒師僧名記伝』の慧思再誕說
五 『七代記』の慧思再誕說
六 まとめ
【參考文獻】
 <要旨>

저자정보

  • 松本眞輔 慶熙大學校 敎授, 日本文學

참고문헌

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