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京畿 海岸島嶼의 歷史 文化와 東아시아

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京畿海岸島嶼の歴史文化と東アジア

경기 해안도서의 역사 문화와 동아시아

金炳坤

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초록

일본어

京畿海岸島嶼が東アジア歴史の一員として登場したのは青銅器時代からである。これを証明してくれるのが韓半島の西․南海岸を中心にした北の遼東、南の日本北九州、そして西の中国の東海岸一帯に広がる環黄海の様相で築造された支石墓社会である。青銅器時代を代表する支石墓社会がたとえひとつの政治集団ではなかったとしても、同一文化圈域と認定されることからも今日江華島で発見された支石墓を築造した人々は青銅器時代の東アジア文化圈域に含まれると言えよう。以降、韓国史が三韓時代に入って京畿海岸島嶼には󰡔三国志󰡕に国名が伝えられている馬韓54ヶ国の大石索国と小石索国が、そして仁川には聯盟長の位相を持った目支国が位置したと比定されることもある。しかしこの地域がより明確に歴史の前面に登場した時期は百済が首都を今のソウル一帯に定め、仁川の彌鄒忽とその前面の島を統合した以降からである。その後4世紀半ばから百済は京畿南部島嶼の徳積島などを径由して中国との間で使臣団を往来させ、北部島嶼の江華島を拠点に高句麗と対峙した結果、この地域の政治学面での重要度が高まることになる。しかし5世紀後半から6世紀半ばまで高句麗が漢江流域を占有していた間、この地域の政治学面の重要度はかなり縮小される。高句麗の立場からすればこの地域は邊境に属し、中国と使臣団を往来させるにも黄海道を利用した海路と遼東半島を経由する陸路を利用したからであった。しかし、6世紀半ば新羅が漢江流域を占有してからこの地域の政治学面の重要度は再び復活する。新羅が百済との密約を裏切ってでもこの地域を占有した理由が中国との直交易路を確保するための努力であったため、以前の百済と同じ状況が展開されたのである。なお以降、新羅は北の高句麗、西の百済、海の向こう南の日本からの軍事的圧力を耐えることしかなかった。このため、この地域を通じた中国との外交活動は重要になるほかなく、実質的な三国統一の軍事的基盤になった羅唐同盟もここを経由した金春秋の活躍によって成立したのである。百済と高句麗の滅亡後すぐに始まった羅唐戦争においても、新羅の水軍が京畿海岸と島嶼一帯で唐軍を逐出し、結局は新羅まで侵奪しようとする唐の野欲を挫くのに大きな役割を果たした。羅唐戦争で一時疎遠となった両国の葛藤が解消された8世紀半ば以降、この地域は既存の唐城鎭と共に江華島の血口鎭などが両国の使臣団往来の主な通路であり、新しく興起した民間交易の主要拠点として注目される。特に9世紀半ば東アジアの商圏を掌握した張保皐の淸海鎭が解体した後、京畿海岸島嶼はその重要性がさらに増し、後に高麗を開倉した王建家門が祖父代からの交易などを通して有力豪族に成長する地理的背景にもなった。またこの地域は新羅と中国を往来する使臣団の主な通路であったため、王建家門等の土着有力集団は他の地域より中央政府の最新情報と唐の最新文化により早く、より頻繁に接することができるという長所を有することができた。このような地政学的位置としての長所を持った京畿海岸島嶼と周辺一帯は最終的に、統一新羅が当時、東アジアの国際社会で渤海より上位の強国として位置づけられる最先端に位置しており、この役割を成功的に随行した。さらに進んで後代高麗から朝鮮へと王朝が変化しながら今日の韓国に至るまで近隣内陸に首都が位置することへある程度寄与した部分があり、また現在も京畿海岸島嶼の永宗島に仁川国際空港が建設され、世界へ進出する第一の関門としてその役割を果たしている。

목차

I. 머리말
 II. 선사시대의 경기 해안도서
 III. 삼국시대의 경기 해안도서
  1. 백제 - 고구려와 경기 해안도서
  2. 신라와 경기 해안도서
 IV. 통일신라와 경기 해안도서
 V. 맺음말
 참고문헌
 <일문요지>

저자정보

  • 金炳坤 김병곤. 동국대 사학과, 강사, 한국사전공.

참고문헌

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