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가와카미(川上) 신파극의 성립과 한국

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Kawakami , the Founder of Shimpa Drama , and Korea

李應壽

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초록

일본어

現在, 日本新派の生みの親とまで讚えられている川上音二郎(1864~1911)は, 少なくとも1888年までは, 單なる一人の「壯士」に過ぎなかった.「壯士」とは自由民權運動に參加した政治靑年を指す言葉で, 彼はこの運動に便乘し, 政治宣傳を目的とする「ぉっぺけぺ節」を流行きせることげよって, 初めて藝能界の表舞台に登場した. そしてそれには, 彼の藝能人としての奇拔な着想とそれに伴う積極的な實踐力に負うところが 多かった.「おっぺけぺ節」に落語の服裝を接ぎ木させたのを皮切りに, 彼は, 1891年には個人劇團(書生演劇)な創立し, その上演においてま博多の「人和加劇」的要素を導入し, 成功を收めた. なお, 1894年日淸戰爭が勃發すると, 彼のこのような傾向はいよいよ最高潮に達する. 早速この戰爭に素村を取った演劇「壯絶快絶日淸戰爭』を上演, テレビ, 映畵などの情報傳達手段のなかった當時の觀客たちに生生しい戰爭場面を提洪し, 好評を博した. そればかりか, 同じ年の10月22日から11월22日までの丸1ケ月の間, 激戰地である韓半島を訪問し, 軍服, 刀, 旗などの小道具を持ち歸り, 歸國報告演劇である『川上音二郞戰地見聞日記』を市村座を始め全國で上演,「戰爭報告劇(reportage演劇)」という新しいジャンルを開拓する傍ら, 當時新生劇であった「新派劇」を歌舞伎と對等なまのに位置づけさせた. このようにして, 川上の新派劇は成立したのであるが, その裏には, 川上と一緖に韓半島から日本に渡った韓國人丁無南(チャムナ)も一役を買った. 丁無南は, 川上の韓半島旅行の時, 彼の通譯兼案內役を勤めた人で, 日本に渡った後,『川上音二郞戰地見聞日記』に俳優として登場して「頻りと芝居を演」じ, それを「眼目として客を呼び」集めたという記錄が殘っているほど, 大事な役割を果たした. この論文は, 早稻田演劇博物館で筆者が近年新しく發見した『川上音二郞戰地見聞日記』の番付けを分析する中で, 韓國人丁無南の役割の多大さた注目し, それを川上新派劇の成立への影響という觀点から整理したものである.

저자정보

  • 李應壽 이응수. 세종대학교 일어일문학과 부교수, 일극문학

참고문헌

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