원문정보
초록
일본어
今まで「なぞの歌人」と言われている枾本人麻品の作家論において,人麻呂の誕生地·年齡と經歷·妻に關して考察して見た結果,次のような結論を得た. 人麻呂の誕生地としては,やはり大和內にある奈良縣北葛城郡新庄町枾本だと考えられる.それは『新撰姓氏錄』が枾本朝臣を大和國皇別に分類しているのみならす,枾本氏越源說を傳える敏達朝の宮廷も同じ奈良縣北葛城郡內にあるからである.また人麻呂歌集歌の中に卷向山·三室山のような大和地方に關する歌もあり,人麻呂の妻である依羅娘子との關係から見ても,奈良地方を 人麻呂の本貫ないし誕生地だと結論づけることができる.そして人麻呂の年齡から推定して見る時,人麻呂は天智朝を前後とした百濟からの亡命人ではなく,大和の百濟人材で生まれ.近江遷都の時.滋賀の韓埼あたりへ移住していて壬申の亂にあったものと思われる. 人麻呂の近江朝に對する印象ないし感傷を歌った作品として,人麻呂の生の秘密や經歷に關する問題とも容接な關係にある「近江荒都歌」(卷一,29-31)に於ける人麻呂の抒情的特性は,あくまでも失われたものを限りなく戀しがる抒情である.これは人麻呂と天智天皇の近江朝とが深い開係にあったことを意味するものと思われる.なお近江荒都歌の反歌二首(30·31)と「タ浪千鳥歌」(266)が歌われたと思われる滋賀の唐崎という所は[韓崎→幸崎→唐崎)の地名漠宇の變遷が示唆しているように,近江朝當時には百濟などから渡って行った人たちが集團を成して居注した可能性が非常に高い地域である.だからこここそ人麻呂が感受性の銳敏な靑少年時代を送ったところであり,壬申の亂當時には宮廷にも出仕していたものと思われる. 人麻呂の出身と官位は大陸の發達した漢文學的な知識を身に付けた点と皇子皇女に關した作品がおおい點から貴族出身として少なくとも五位以上の身分であり,おもに持統朝の宮廷歌人として活躍していて,奈良遷都(710년)以前に六十歲程度の年齡で死亡したものと推定きれる. そして人麻呂の妻である依羅娘子は河內國丹比郡の佐羅鄕あるいは攝津國住吉郡の大依羅を本貫とする渡倭人の娘,それも百濟人の血統を受け繼いだ女性であることがわかった.
목차
二. 人麻呂의 出生地
三. 年齡과 經歷
四. 人麻呂의 妻, 依羅娘子
五. 結論
要旨
