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초록
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夏目激石(1867-1916)は1907年,朝日新聞社に入社する直前に書いた「僕の昔」という談話で,自分の生きて來た過去を振り返って見ながら`小供の時分には講釋がすきで東京中の講釋の寄席は大抵聞きに廻つた`と回顧している.また,自分の寄席趣味について自傳的な作品や隨筆などで繰り返し述べている. しかし,今まで行われた漱石の作家以前についての先行硏究は落語を中心に硏究されてきたのだが,幼い時,彼がよく經驗したと思われる講談の影響についでの硏究は皆無である. 本稿ではこの点に着目して,激變する明治維新という時代狀況の下で當時の民衆に日本の歷史を語りながら皇國の精神を傳えた,最も日本的な性格を特性とする藝能というべき講談が明治維新期に生まれた漱石の幼年期と少年期,そして靑年期にどんな影響を與えたかについて考察してみた. その考察において,幼年期に養父と供に出入りしながら聞き始めた寄席での講談師の史實に基づぃた 「漢楚軍談」の覺えが,イギリスでの留學の時,シェ-クスピアの作品「King Riㅊhard the Second」を讀む時,思い出されたり,1909年に書いた『滿韓ところどころ」では, 中國の노동자か동いている場面を見て`余は不圖漢禁軍談を思ひ出した.`と書いたりするところから,むかし講談師から聞いた講談が大きな影響を與えたことが分った. そして,このような歷史意識をもとにして.彼は當時11才という幼い時に南北朝の英雄である補正成に自分を投影して「正成論」という作文を書いた.また,二松學舍に入學して習った史書である「左國史漢」(『春秋左氏傳」.『國語』.『史記』『前後漢書』の略稱は役の文學理論の基礎を形成することになって,『文學論」の「問隔論」を執筆する時,この『春秋左氏傳」の「언능の戰」を引用して說明したり,『吾輩は描である」では`左氏が언능の戰を記するに當つても先づ敵の陣勢から述べて居る`という文章を引用するなど,講談が漱石の文學に影響した痕迹を見ることができる. それで本人は,今後の課題として今は凋落の一途をたとりつつあるが,明治維新という特殊な時代に國史を聞かせながら民衆に歷史意識を植えた講談師の講が漱石の作品にどのような形で表れているのかを分析してみたい.
목차
Ⅱ. 본론
Ⅲ. 결론
要旨
