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초록
일본어
この論文は日本現代文學において普遍化されてきたと言える,私小說という小說形式の中で比較的に原形的な意味を帶びている私小說的性向を說皮しながらも,今でもやはり私小說という境界地点で絶えずに私小說的ヌ場を堅持してきたように見られる作家の中で,特に,代表的な現代作家である二人の作家(田官虎彦,大江健三郎)と後代作家たちを檢討して,彼らの文學性向を私小說的な批評角度で硏究しようとすることを執筆目的にしている. 田宮虎彦の場合は1950年代から1960年代に至る時期にかけて作品活動をしてきた作家であり,大江健三郎の場合は1970年代から1990年代の最近に至る時期にかけて作品活動をしてきた作家であって,この二人の作家を-つの同一の派絡構造線の上で硏究の焦點を合わすというのは,私小說の境界領域に位置している日本現代作家の-つの脈絡を漠索してみることがでくる点で,この硏究の意義を持てるのであろう. 田官鹿彦の場合は彼の文學上の軌跡から見て客觀小說を書いた作家であると同時に歷史小說をも書いた作家だという評價をもらうのであるが,だからといって,彼の發表した作品は澈底に慮構だけを追求したて作家だというふうに評價するには多少の疑問点を殘す作品がある.そして,やはり何人かの批評家から彼のそんな私小說的意場を堅持する作品が常に問題になってきた. 大江健三郎の場合は彼の作品の中で美驗的敍事方法を驅使することによって原形的な意味の私小說のありを模糊にしている.私小說の方法で作品を造形していきながら,その中で作中作法を驅使していく.從って大江健三郎の場合も作品外約要素を充分に確認しないと作品の接違がとても難しくて理解できない点がありうる.
목차
Ⅱ. 다미야 토라히코(田宮虎彦)의 私小說의 경계지점
Ⅲ. 오에 켄자부로(大江建三郞)의 脫私小說性向
Ⅳ. 영속되는 장르로서의 私小說的 패러디
Ⅴ. 결론
參考文獻
要旨