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일본어
一九一0年「韓日合邦」に際し,日本はナショナリズム-色の雰圍氣であった.文學者は勿論,ひいては片山潛のような社會主義者も「韓日合邦」を認めるような時期であった.しかし,啄木は韓日合邦を批判した歌を作っている.そのような歌が歌われた背景について,啄木が新聞ジャ-ナリズムの中にいたことから,次のように考えてみた. 先ず,韓國人鬪士らへの關心である.韓國は「第二次韓日協約」によって外交權を奪わ れ統監政治下に入ったか,啄木はこの實狀を「亡國の慘狀」と認識していた.その後,獨立のための武力鬪爭が相次いで起きたが,特に,啄木は「亡國」を救うために命を投げつけた張仁煥,田明雲,安重根,李在明のような韓國人鬪士らに人-倍の關心を示していたと思われる.伊藤博文暗殺事件の時,啄木が安重根を指して「韓國革命黨靑年」と書き得たのは,スチ-ブンス狙擊報道記事にある「韓人の革命黨員」のような言說と無關係ではあるまい. 次に,「韓日合邦」前夜の思想や言論彈壓への注目である.「文藝取締」問題を「矛盾ある出來事」と考えていた啄木に,「韓日合邦」に際しての社會主義思想への彈壓と韓國での言論彈壓は日本政府を批判的に見られる視点を與えたのである. 以上のように,啄木は「韓日合邦」を批判的に見ていた.そして,韓國人鬪士らに示した關心から分かるように,韓國を理解し同情していた. 啄木のテクストの中にはこのような解釋が可能な部分は實際ごくわずかであるが,韓國を理解した啄木の作品や精神は韓日の歷史を考え直し,今後の韓日關係を立て直していく時,その交流の端緖を與える重要なものになるだろう.