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초록
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安永四年(1806)から文化三年(1806)まで出版された草雙紙二千余種の總稱として「黃表紙」がある.これは武家作者らによって開拓されるが,その後新しく活躍期を迎える町人作者を代表したのが「山東京傳」である.彼が生涯ものにした黃表紙約百ニ十余部のうち,本稿では僅か十二部のみテキストとして取り上げることになるが,總體的「黃表紙における$lt;作者の$gt;趣向の展開史」をまとめる,という今後の課題の一步というところに意義を置きたい.$lt;作者の희화화$gt;とは作者らしき肖像畵を卷頭·卷尾に出したり,本文中に作者の面影を持つ人物を登場させることによって,作者自身を희화화する趣向を指す. 山東京傳の黃表紙を前期と中期.それから寬政改革を境にして後期というふうに分けると,次のような山東京傳黃表紙における$lt;作者の희화화$gt;趣向の展開史をまとめることができる. 前期 ;天明二年から五年に渡って,京傳は畵工から黃表紙作者へと比重を移す姿を,口上で見せてくれる.自晝像を太郎冠者姿に假託して現れては,自己紹介したり,作品の創作動機を戱れたりする. 中期 ;改革の嵐が吹き始めた時,京傳は作品の卷頭に自分と妹を描き入れたり,獅子鼻で作中に登場しながら,あくまでもスト-リ-を導いていく案內人,そして見物客の役割をさせたりしていたのだが,寬政改革の眞っ直中に置かれる頃は,作者の失敗譚という形を借りて,自分を徹底的に茶にする手法に目覺@め,主役として事件の當事者にもなる.或いは,再び롱姿にをって「ぉ子樣方」という言葉を口上で强調したりする.そして,사자비の京傳か講釋師の姿を借りて冒頭に登場したり,讀者を代表して酒落過きる風潮を諫められる脇役に廻ったりする. 後期 ;寬政末期になると,殊更敎訓を意識するようになった京傳は,獅子鼻で自分の肖像を희화にしてはいるが,至極眞面目な言辭を卷頭卷尾で述べる作品を著す.しかし,いよいよ享和四年,「作者胎內十月圖」で團子鼻の京傳が妊婦姿で描かれ,희화の種を産み落とすまでの苦心ぶりを描寫して作者の희화화の手法の項点を極める.
목차
1. はじめに
2. 初期の山東京伝(天明二年~五年)
3. 中期の山東京伝(天明八年~寬政三年)
4. 後期の山東京伝(寬政十一年~享和四年)
5. 京伝黃表紙における〈作者の戯画化〉趣向の展開史-そのまとめ-
