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초록
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人麻呂の歌、特に「廬」の表記と歌の発想を攻究していくにつれて私はどうしても漢詩文の影響を拭えない節があることに気づ いたのである。そこで本稿では巻三の巻頭歌である本文歌における「廬せるかも」と左注歌の「宮敷きいます」の表記の差が懸 隔であることに着目し、この末句における意味上の対応を発見することは人麻呂の歌全体の抒情の流れを読み取るのに不可欠の 作業であろうと思われたことから人麻呂の歌の発想と創作の動機、文学史的な意義などを綜合に考究してみようとした。 そこで、とりあえず陶淵明をはじめとする漢詩文と比較しながら考察し、この人麻呂の「廬」と関連する歌の発想の源を探ろうと した。そのことは担うべき時代と文化のあり方を究明する作業でもあろうが、一方ではその方向にむけてのより多角的な視野から関連 文献を渉猟する必要を感じたからでもある。 そして最初に得られたのはこの「廬」に付き纏う当時の政治․文化がそうであったように全面に多層的な道教思想が背後に あってその影響のもとに詠まれた歌語であることがわかった。勿論、その方法論としては万葉の歌を部立別にある「廬」の意味を調 査し、それに対応する前代の漢詩文の「廬」と「宮」の意味を穿鑿してみようとした。またその一方では万葉歌と神話に出てくる 橋の性格を有する「浮橋」の本來の意味を追究してみたところそこには天子の位を象徴するかのように吉祥をもって 皇都を讃美し、且つ大君を仕え奉ろうとする古代中国の天子の観念が根づいていたことが見受けられる。 いずれにせよ、歌をもって当時代における人麻呂の存在の根本を正確に捕えるためにはまず東アジアの歴史․文化にかかわる 諸問題を先に考慮し、時代を遡ってその影響関係を探らなければならないと思うが、当面の歌における詩句を漢詩文の諸記錄と照 らし合わせてみるならば、この「廬」と「宮」の表記は天皇を最高に崇めよおうとする共通認識のもとに支那から齎され詩語を巧 みに利用して創作された歌であろうことが察せられよう。 改めて、以上のような論点から当面の二三五番歌を眺めてみると本文歌と左注歌の表記の差異は天皇が居る宮殿を「廬」と 表現するように「宮」の字をもってもやはりその意味がほどよく並べでたてられて等価の心象風景のもつ歌を紡ぎだせたのではない かと思われる。 結局、歌を通じてみる人麻呂の感性の源を探り求めようとした時、そこには当然ともいうべき神仙思想の刺激があった。そのような 波と風潮の流れの上に奏でられた歌の調べを感ぜざるを得ないのである。そうであってこそ「廬」と「宮」の歌が同じ調べの性格 を具有し、同じレベルの歌の真価がそこで発揮されたものと考えられよう。
목차
Ⅰ. はじめに
Ⅱ. 雜歌における「廬」
Ⅲ. 羈旅の歌
Ⅳ. 挽歌における「廬」
Ⅴ. 相聞の歌における「廬」
Ⅵ.「廬」から「廬山」まで
參考文献