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일본어
1616年滿州で後金が勃興し,1618年釜山で倭館が增改築され,委]館には對馬人の往來が頻繁になり,これによって接待と貿易に樣 な弊害が生じた.對馬人は,戰後の日本の武威をがさに着いて,狐假虎威する「余威」で朝鮮협かし,自分らの利益を欲しいままにしたが,朝鮮は北邊が不安なので,彼らを對日本外交のてこに利用しようと,ある程度の弊害は我慢した.實利的な外交で朝鮮の安全を保とうとした光海君が反對派により廢位され, 1623年には仁祖が 「 向明排金」政策に變えたため,北邊は益 不安になり,朝鮮は「北虜南倭」の狀況に直面した.そんな折,幕府から使臣派邊の要請があり,1624年朝鮮は? 「回答兼刷還使」を幕府に派違した.使臣は日本を「島夷」だと考えていたが,日本での庶民の秩序や國の經濟力に多少の驚きを感じた.たが,日本が朝鮮の學問に深い關心を寄せているのを見て,日本の武に對する劣等感を挽回刷ることができた. 使臣が探索した日本の國情は,家光將軍の治世に不安があったが,朝鮮を再侵する恐れはなかった.今回の使臣の報告により,朝鮮は日本に警戒心を緩め,北邊の防備に萬進することができた.1624年の使行を境に,朝鮮は「南倭」の心配を忘れて,日本と交流關係を待つことが出來るようなった故にこの使行が「通信使」外交へ轉換點だと言えよう.
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