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大伴家持は越中國守としての任期を終え,天平勝寶三年(七五一)七月十七日に少納言となり,越中を離れるようにをる.そして歸京後,世に絶唱三首として高く評價される,(19)四ニ九○~九二を制作している.この三首についの評價は旣定の事實のことく從來考えられてきたが,しかし實は,大正から昭和にかけて秀歌として位置づけられたということが,最近(といっても,もうニ十余年前だが)明らかになってきた. 近代に入ってから發見された絶唱三首は,それ以來,主として「春愁歌」と見なされてきた.すなわち,先行硏究者は絶唱三首に近代人の感受性や絶對弧獨を見出した.そして,その見方は今なお搖るきない地步を占めている.しかしながら,(19)四ニ九○~九ニについての通說には模倣歌人·類型歌人と稱される家持を救いたいという先生硏究者の慾望があったのではないか. つまり,先行硏究者は万葉集の最終的な編纂者と考えられる家持の文學史的な位置を考えて,彼にふさわしい地位を寫えたかったのではないか.その意味で,(19)四二九○~九二に近代人の感受性や絶對孤獨を見出したことには,硏究者たちの政治的な意圖(=政治性)があったのではなぅかと考えられる.
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