초록
일본어
日本が近代を向えるようになるのは、一般に明治以降といわれる。しかし、西洋化ともいう日本の近代化が、明治期に可能になったのは、それ以前に準備期間があったからこそできたのである。なお、その背景には翻訳文化があった。 翻訳とは進んだ社会の文化を一般の人々が―原書を読まなくても―すぐ接することができる方法の一つであり、実際文化がのび育つ直前には、いわゆる翻訳の世紀と呼ばれる時期があった。 つまり、準備期間を持ち、その間、進んだ社会の多くの書物を自国語に置換えたということだが、日本の場合、そのような作業が、江戸時代に、まず長崎通詞によって行なわれた。そこから学問にうちこむ通詞が現われ、また通詞の職を辞めて学問の道に専心したモト通詞も形成されてきた。さらに長崎に遊学した江戸の人などが長崎の蘭学を持ち帰り、その振興に励み、18世紀後半から19世紀初期には江戸が蘭学の中心となり、次々に西洋文献の翻訳作業が行なわれた。このように、日本の翻訳史の一源流を江戸時代のオランダ語の翻訳に求めることができる。 16世紀キリシタン渡来によって、日本人が西洋の言語とはじめて接してから,鎖国となって西洋の言語の中からたった一つのオランダ語を公式な言葉として選び、それによって蘭学という学問を形成し、その蘭学を専門とする学者によって西洋の文化を翻訳したのである。その際、西洋の学問についての研究と共に多くの良書を日本語にうつし変え、その紹介にも努めた。殊に後者の多くの良書を苦心しながら翻訳ㆍ紹介したというところは示唆する面が多い。 長崎の出島は、幕府の鎖国政策の間、西洋知識導入の唯一の窓口で、そこから選別的な輸入が可能であったのである。なお、厳密にいうと、日本の近世は、鎖国ではなく、いわゆる選別的な鎖国で、良質の西洋の文化は持続的に入ってきた。徳川政権がこのように蘭学を許容したのは、幕府封建体制補強の実学としての利用価値を認識したところにある。蘭学者により西洋の学術や文化が次々に日本語にうつし変えられ、以後の明治という時代に日本はいわゆる近代化ができたのある。