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いわゆる義理人情説は、坪内逍遥が近松の浄瑠璃は義理と人情との葛藤による悲劇であると規定していらい、近松を捉える上で代表的な研究方法として定着してきた。いろいろな学者によってさまざまな角度から近松の義理の問題がとりあげられているが、今日においては義理と人情は対立葛藤するものではなく、むしろ相補的に両立するものとされ、近松は義理も是、人情も是となるものとして肯定しているというような見方が支配的になってきている。このような近松の義理を人情との結合の構造として捉える立場では、近松が義理というものを作品の中でとりあげた意図についても、義理とは何か、あるべき義理とは何か、あるいは義理に従う生き方はどうあるべきかとか、そういうことを明らかにしようとしたものではないということを力説する。筆者も近松の義理が人情に支えられた義理であり、決して人情と矛盾対立するものではないという見解に基本的に賛成している。しかし、近松が義理を作品の中でとりあげた意図について、義理そのものを描こうとしたものではなく、義理を道具として、義理によって否定されなければならない人情とくに「私の情」というようなもの、それの大切さというものを描こうとしたと捉える見方に対して、甚だ疑問に思えるのである。本稿では、義理と人情の結合の様態を示す典型的なものとして、従来しばしばひきあいに出されている『心中天の網島』という作品を中心に、近松における義理の意味について考える
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