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万葉長歌の衰退に関する試論

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An Essay on the Decline of Choka in Manyoshu

朴一昊

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本論文は、万葉長歌の衰退の問題について、家持長歌を中心に、独詠長歌の多作と長歌のあり方、依興歌としての賦の制作の意味、反歌における方法的試みと限界、といった観点から考察したものである。家持は万葉長歌の衰退期にありながら長歌を多作した歌人である。長歌の代わりに短歌が抒情詩の主流となりつつあった時代において、あえて長歌を制作し新しい方法を試みた家持の文学的営みは、長歌再生への苦闘の道程であった。 まず、家持は独詠長歌をもって、内面の世界を表白する自由な抒情形式を試みた。独詠という歌い方は、詩的話者の感情を今ここにおいて表す方法で、抒情の本質にかかわることであるが、家持はこの抒情の方法を長歌をもって独自に試みたのである。独詠長歌の方法は、表現や形式の面で先代の人麻呂や憶良に習っているが、抒情への視線といったところで家持は人麻呂と異なる方向にあり、抒情の表出といったところで憶良と異なる立場にあった。 人麻呂の独詠の抒情は、自己を含め享受者の感情をも踏まえて披露される虚構的抒情であるが、家持のそれはもっぱら自己へと向かう抒情である。また、憶良の独詠長歌は、伝えるべきところを論理的に述べていきながら、それを集約して結論を示す、といった構造であるが、家持の長歌は感情が流れ出すままに言葉を羅列していく構造である。家持の長歌は、脈絡がないように見えても、次々と浮かんでくる言葉を吐き出すかのように並べ立てることによって、抒情を果たしたのである。 しかし、家持の長歌は先人の二通りの方法を自己化しようとしたものの、いずれの方向においても達成の域に至らなかった。独詠の長歌は、自己の感情や感覚に寄りつつも、それを抱え込む統一の観念を有しないと、抒情詩たりえない。ところが、家持は、感覚による抒情の表白に観念をともに盛ることにはそれほど関心を持たなかったように考えられる。このようにして、感覚と観念の統一を保たなかった長歌は、結局抒情形式としての運用の幅をみずから狭くしてしまったのだいえる。 なお、家持は人麻呂や憶良の方法を受け継ぎながら、もう一方では中国の辞賦文学に学び、新しい方法を模索する。この新しい方法的試みはある成果とともに、それとは裏腹に限界をはらんでいたのである。漢文学の世界に対応せしめる衒学的意欲だけが先走って、様式的内実を固めることが出来なかったのであり、叙景とすべき所を、「興」という極めて繊細な抒情を持ち込むことによって(二上山の賦の場合)、破綻が生じてしまったのである。 そして、家持は長歌の終結形式である反歌の制作において、新しい方法を試みる。長歌を真の抒情詩として成り立たせる様式として、反歌の凝集力と連作的羅列を巧みに用いた。取り留めのなく流れ出していく(狭義の)長歌の抒情を分解し直して、長歌の世界を追体験できるような反歌を意図したのである。ところが、この意味深い方法も、ついには情緒を分節し並べる短歌の連作に方法的に取って代わられてしまい、さらに反歌は無意味なものとなってゆき、反歌を欠いた長歌が大部分を占めるようになる。 万葉後期の歌人として大伴家持は、長歌再生のための多彩な方法が試みたものの、長歌は完全な抒情詩への道と正統の叙事詩への道との間でどちらにも至らず、ついに衰運の坂道を辿るようになったのである。

저자정보

  • 朴一昊 박일호. 성신여자대학교 부교수

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