초록
일본어
夏目漱石の『三四郎』と廉想渉の『万歳前』を通じて知識人青年の近代体験の様相を比較して見た。 先ず、近代体験の内の青年知識人の様相を考察したが、それによると『三四郎』での三四郎には近代化を象 徴する汽車を通じて上京する道が未来に対しての希望とときめきで満たされていたが『万歳前』の李仁和の汽車 を通じての旅路は死と暗闇が待っていることを表しているように結局互いに対照的なイメージで近代化の象徴である 蒸気機関車にのっていることが分った。 次に、二つの作品を三つの観点、すなわち‘東京の意味、青年におけるの女性の意味、それから近代知識人 の周辺’に分けて比較して見た。考察によって確認できたことは、『三四郎』と『万歳前』に見る青年知識人の 様相は対照的なイメージだということであった。三四郎の生は知識人青年の非常に正常な生の姿として見ることが できたが、李仁和の生は植民地の国民の歪曲していてゆがんだ自画像を見せているという点から個人の生は決し て国家と遊離しては考えることができず、時代精神から逃れることができないという事実をもう一度教え悟らせてい る。 二人の青年はどちらも絶望を味わう。三四郎の苦痛が失恋によっての個人的苦痛だとしたら李仁和のそれは時 代と正体性の苦痛である。両方とも個人にとっては大切なことである。しかし、これら青年知識人の苦痛は自意識 の成長する段階で感じられる健康な苦痛のように判断できる。 二回にかけて『三四郎』を読んだ廉想渉は暗欝な時代の青年知識人の自画像を、決して『三四郎』のように 浪漫的に描くことができなかった。かえってその正反対の様子が韓国の青年知識人の情緒を表していると考え当時 の韓国の現実を『万歳前』を通じて表現したと思われる。
목차
1. 서론
2. 청년 지식인의 양상
1) 선형여로를 통한 자아발견 - 『산시로(三四郞)』
2) 회귀형 여로를 통한 현실의 자각 - 『만세전』
3. 『산시로』- 『만세전』의 비교
1) 청년지식인에 있어서의 동경(東京)의 의미
2) 청년에 있어서의 여성의 의미
3) 근대 지식인의 주변상황
4. 결론
참고문헌