초록
일본어
本稿は昭和十七年の「花の町」という作品が戦時下での井伏鱒二のアジア占領に対す精一杯の抵抗小説で あったことを検証するために、作品に現れている言語観に注目して考察した。すでに昭和十二年発表された「『槌ツァ』と『九郎治ツァン』は喧嘩して私は用語について煩悶すること」という作品に、日本の国内での「文 化帝国主義」的な言語政策をモチーフにし、遺憾を表わしていたことが確認できた。「花の町」ではこういった井 伏の言語観がその間変わっていない事、いやむしろ「文化帝国主義」的な言語政策への不信感が募っている事 が明らかになった。「『槌ツァ』と『九郎治ツァン』は喧嘩して私は用語について煩悶すること」では、農村の封 建的な差別的言辞と、都会語と方言との差別を通して、言語のヒエラルキーに潜む暴力性を描き、「花の町」で は植民地での日本語の強制的普及による現地語に対する日本語と、英語に振り回されている日本語というヒエラル キーを描いているのである。但し、両作品においての語り手の立場は違ってきて、「『槌ツァ』と『九郎治ツァ ン』は喧嘩して私は用語について煩悶すること」では、語り手「私」は攻められる側にあるが、「花の町」は主 人公木山が攻める側に属している。 「『槌ツァ』と『九郎治ツァン』は喧嘩して私は用語について煩悶すること」で郷里のことばにはその人々の アイデンティティと深く結びついてたやすく崩壊するものではないという言語観を持っていた井伏は、標準語が話せ る山形弁の神田という人物を設定し、日本語を強制的に余所の国で押し付けることに反感を覚えていたであろう。 即ち日本の占領政策の風刺を、検閲を通過できるように配慮しながら、戦時下での井伏の精一杯の抵抗小説とし て読めるように井伏の捻りがあった作品である。
목차
はじめに
1. 「槌ツァ』と『九郞治ツァン』は喧譁して私は用語について煩悶すること」
2. 「花の町」
2.1. 田舎での標準語と植民地での日本語
2.2. 日本語の上手な現地人と山形弁の神田の設定
おわりに
参考文献
