원문정보
초록
일본어
江戸幕府は、米国のペリー來航を契機とする対外的及び日本国内における政治的․軍事的緊張に対処する一つの対策として、1857年1月江戸九段下に蕃書調所を設立した。 蕃書調所は洋書の翻訳と洋学教育を主要目標として、併せて、洋書と翻訳書の印刷․刊行、洋書検閲なども行なった。従って、その性格は高等教育機関というより、特定目的を持った幕府直轄の調査研究機関としてみるのが一般的である。 しかし、蕃書調所は、箕作阮甫․杉田成卿․川本幸民のように、当代の蘭学者が教授職を持っていた機関でもあった。そこで、幕府の影響を受けながらも、一方では彼らによって西洋に対する研究と翻訳、そして教育が行なわれた。 本稿では、このような性格を持つ蕃書調所において、翻訳と教育はどのような目標下で推進されたか、また実際の成果とその性格はどうであったかについて考察する。 それを通じ、以後開成所․東京大学へと拡大․発展する、いわゆる近代日本高等教育機関の前身の一断面および特徴をうかがい知ることができると思う。具体的には1857年から1862年までの6年余の期間を対象とする。 考察の結果、広く各国の学問と技術を開発するという蕃書調所の設立当初の趣旨には及ばなかったものの、翻訳の場合、語学(英語)․基礎科学(物理学․化学)․兵学などの分野において多数の成果を残こし、教育の場合、幕府が直接西洋に対する教育を試みたことや各藩の藩士にも門戸を開いたことなどが、実際の成果の特徴として挙げられる。 以上は、その背景に蕃書調所の学者の努力と能力、それから彼らを認め、積極的な支援を惜しまなかった幕府があったから可能であったと思う。要するに、人才的要素と制度的要素がバランスよく共存したからできたことである。 なお、1863年以後の開成所の観点からみると蕃書調所の以上の出来事は進行形という表現が適切であろう。
목차
I. 서언
II. 반쇼시라베쇼(蕃書調所)의 번역과 교육
III. 결어
參考文獻
