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明治42年(1909)は作家永井荷風にとって大きい意味を持つ年である。成瀬正勝は明治42年は 「彼に 新進作家に地歩を確保させた決定的な時期であった。」と言っている。荷風は明治42年1月、『ふらんす物 語』中のいくつかの作品を発表し,続いて短篇六つ、中篇一つ、さらに新聞連載長篇に評論、訳詩、随筆、 談話筆記に至るまで発表された作品の数は40余篇におよぶのである。しかし、荷風にとっての明治42年の意味を 発表した作品の数が多いところだけから探すわけでははない。それは明治36年、アメリカに旅立ってから約5年 間、アメリカとフランスでの生活を終えて日本に帰った永井荷風の芸術観が一変されたからである。この問題につ いて相馬御風は「『ふらんす物語』まで荷風がもっていた芸術心境は意識的に破壊されて、社会批判、享楽主 義、諦念․冷笑的人生観、官能美の世界を扱うようになった」と述べている。『帰朝者の日記』は明治42年10 月1日、「中央公論」第24年第10号<秋期大附録号>の「附録小説」の欄にかかげられた小説である。この小 説は欧米から帰国してから半年になっても日本社会、すなわち明治文明に慣れることのできないピアニスト、自分 の日記形式で進行していて、明治文明の無分別ㆍ無反省的な西洋模倣に痛烈な批判を加えている。では、 『帰朝者の日記』はどう読まれてきたか。同年12月から東京朝日新聞に連載した作品『冷笑』の先行作品で見 のがした傾向が強いし、作品か発表された当時から今までこの作品は‘西洋との比較を通して荷風自信の日本文 明批判意識を強く主張した作品’として読まれてきた。 でも、本間久雄が指摘しているようにこの作品は当時荷風の芸術的基調を代表する作品の一つであると同時に 以後の作品の方向を宣言する足場になる作品であると思う。このような意味で、『帰朝者の日記』は看過しては いけない作品であると言えるだろう。で、本稿では『帰朝者の日記』に表す作家の視線に注目したい。荷風は 〈西洋の文化を基準として日本を観察、批判した〉のではなく、日本に相応しい文化とオリジナリティを強烈に 願っていたのである。この読み方は帰国後一変した作風についての説明にもなり、以後、荷風がとった芸術家的 態度を闡明したという点で大きい意味があると思われる。
목차
Ⅰ. 서론
Ⅱ. 본론
1. 「귀조자의 일기」의 위치
2. 가후의 현실 인식
3. 작품의 선언적 의미
Ⅲ. 결론
참고문헌
