원문정보
초록
일본어
大岡のレイテ戦闘への認識は、敗戦認識に基づいた被害者としてのイメージが拡大再生産されていた、戦後 高度経済成長期の日本社会に、自分達の歴史を外部の眼差しで相対化して視る認識の地平を開いたという点で は高く評価すべきである。しかし、この作品の執筆のきっかけはレイテ戦闘で名もなく死んだ兵士の名誉を回復 し、その霊を慰めることであり、結果的に戦争への反省というよりは、アメリカの資本主義と結ばれたアメリカの軍 部にその責任を問っていることが確認できた。これは執筆当時の、アメリカの資本主義に無気力に支配されていた 日本の現実への憂いから来たもので、その中で日本兵士のフィリピン人への加害者としてのイメージは隠蔽され、 日本軍部と天皇、それから米軍部の被害者として表象されていることが明らかになった。さらにそのような論理は 1990年末以後の日本の新保守主義の論理的根據となっていることも確かめられた。 ここで確認しなければならないのは、大岡の主張しているように、日本兵士の参戦理由が必ずしも強制的だっ たかということである。彼らは個人的に戦争に勝利した時の利益を期待したのではないか、果たして彼らに天皇と 軍部の戦争の名目に批判的認識はあったか、自分達がフィリピン人に与えた被害への責任意識はあったか、と いった問題に対して、大岡は何も述べていない。勿論、兵士個人の戦争責任はエピローグで言及されてはいる が、それは漠然とした数字の表現に過ぎない。日本兵士のフィリピン人へ加害の具体例は、たった一回紹介され ているが、それはどこまでも敗戦に傾いていく戦況で限界状況に処した人間が日常の判断力を喪失した状態で冒 したこととして解明されている。天皇と軍部の戦争責任の問題も、戦況の誤判によって無理に戦争を敢行したこと に対したもので、戦争そのものへの批判は曖昧な状態で放置するか、スペイン、アメリカなど、帝国主義の一般 的な属性として普遍化する。フィリピンの解放という戦争の名分に対してはアジアと区別し、日本とフィリピンはとも にアメリカの資本主義の被害者という点では他のアジア民族と日本を同一視する矛盾を露呈している。
목차
1. 서론
2. 본론
2.1. 오오카의 전쟁체험과 집필당시의 국제정세
2.2. 집필의도와 르포형식
2.3. 집필태도와 의의
2.4. 전쟁책임의 주체와 대상
2.5. 전쟁책임 주체의 애매화
3. 결론
참고문헌