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有島武郞の『親子』論 ーアンビバレントな表現の持つ意味ー

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A Study on Arishima Takeo's “OYAKO”

奥村裕次

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초록

일본어

『親子』は、父と農場という有島にとってきわめて大きな意味を持つ事柄を題材として描かれている。しかし、 『或る女』『カインの末裔』などの作品に比べると、その作品論の数は少ないのが現状だ。しかも、研究者に よってその解釈に大きな隔たりがある。その要因は作品の最終部分の「よしやり抜くぞ」という意味が明確でな く、それゆえいく通りかの解釈が生れてきているからだと言える。本稿では、問題となっているこの部分の解釈に 焦点を当てて論じることにした。 作品は1923年当時の有島の思想的課題を中心に、過去の題材をもとにして再構成されたものでる。父との思 想的対立に悩み、理解し合えない苛立ちを覚える「彼れ」が、今日こそはと父との対決を決心するが、結局、 最後は血縁の愛に落ち着かざるを得なかった、というストーリー構成となっている。しかし、このテクストはそれほど 単純に「親子の情愛」に終結されないものを含んでいる。「やり抜くぞ」という「彼れ」の決意は「胸の底に 沈」み、「血のつながり」に対する感情は「熱い」と同時に「淋しい」ものであった、という読みも可能であろ う。テクストはアンビバレントな表現ゆえに異なった解釈が生れてくる。しかし、それは多分に意図的で、こうした 表現により別の解釈の道が残されているところにこの作品の特徴がある、と言える。 有島が自分自身を見詰め直したとき、否定できないことはブルジョア階級の父のもとに生れたという事実だっ た。それゆえ、親子の問題は「血縁の愛」に落ち着いたのではなく、実は「血のつながり」からくる絶望感がそ こにはあった。「血のつながり」は親子という絶対的な情愛のつながりを意味すると共に、有島にとっては生まれ 育った階級を変えることが許されない<宿命>であったのだ。その両面性を「熱い」「淋しい」という相反した言葉 で表現しているが、「淋しさ」と表現しなければならなかったところに作者の悲しみがあったのではないか。作品 は作者の高ぶった感情を見せながらもどこか暗い幕切れとなっている。

목차

要旨
 1. はじめに
 2. 「親子」執筆の時期的背景
 3. 人物造形と作品の展開との関係
 4. 「やり抜くぞ」が意味するもの
 5. 「熱い」と「淋しい」のアンビバレントな表現とその意図
 6. ブルジョアであるとの自と書覚けない苦痛
 7. おわりに
 参考文献

저자정보

  • 奥村裕次 한국외국어대학교 일본어과 조교수, 근대문학

참고문헌

자료제공 : 네이버학술정보

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