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『시라카바』와 「민예」 사이의 「조선」의 위상-「조선민족미술관」을 중심으로-

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梁智英

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초록

일본어

柳宗悦が中心となる民芸運動は、1924年の「朝鮮民族美術館」そして、1936年の「日本民藝館」という<場>の実現とともに、この<場>を中心に展開されていった。このような運動は、白樺派の美術館構想運動が原点となっていて、「朝鮮民族美術館」設立は、白樺美術館と民藝館の過渡期に位置していたといえる。ところが、柳を含め白樺派が願望していた「白樺美術館」は構想だけで終わり,「朝鮮民族美術館」と「日本民藝館」は、多くの人々の支持を得て実現できた。この理想を挫折と実現へ分岐させた力は、そのような空間が時代のイデオロギーを代弁し得たかという問題と関わっていた。 つまり「朝鮮民族美術館」と「日本民藝館」には、収蔵品が選定、配列されることで、何らかの歴史性が付与される。そこには、必然的に日本が主体となる支配の論理、或いは、植民や帝国主義を強化する論理の文脈にとりこまれてしまう要素が内包されていた。それだから、芸術をもって朝鮮や日本の民族意識や固有性を高らかに宣言する柳の意図が、時代と並行する形で実現したのである。 しかし「朝鮮民族美術館」の場合、そこに収蔵される物が被支配国のものであっただけに、より複雑な政治的問題を絡んでいた。そこには、日常必需品の用具とみなされていた李朝陶磁器から美を発見したような、個人の直観がものの価値を決める白樺派的な文脈と、それを美術品と認定し収蔵し陳列することで、朝鮮の美が秩序化され、帝国の歴史に収斂されてしまう帝国主義的文脈があった。したがって、その<場>には、美とイデオロギーの絡み合いと主体の交差が起こるなど、柳宗悦/朝鮮/総督府、それぞれが自分の文脈をもってせめぎあっていた。このような問題を孕みながら柳が熱望していた「朝鮮民族美術館」は、1924年に朝鮮の民族美術館として実現した。それは、柳の理想の実現であり、一方で、そこには、具体的な空間における収蔵の思想が、個人の直観による美の「発見」のダイナミズムを許されなくなる。また、朝鮮の知識人は、そのような空間を通して「民族」としての個別性を認めた柳に出会い、彼の文化活動を、自らの主体性を獲得していく<場>として流用していったのである。

목차

要旨
 1. 들어가며
 2. 시라카바파의 미술관 구상과 야나기 무네요시
 3. 「조선민족미술관」의 수장(收藏)사상
 4. 조선인의「우리의 미술과 전람회」
 5. 야나기 무네요시의「일본민예관」구상 󰠏 1936년「순(純)일본세계」
 6. 마치며
 참고문헌

저자정보

  • 梁智英 양지영. 쓰쿠바대학 대학원 인문사회연구과 박사과정, 근대문학, 비교문학

참고문헌

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