초록
일본어
植村諦は生涯の最後の瞬間までアナキストに一貫した激情的な詩人で、特に植民地朝鮮でアナキズム思想によって民衆と供に日帝に対抗した詩人である。今は植村諦を憶えている人々はほとんどいなくなり、無名詩人に等しいと言えるだろう。しかし彼は1929年10月に朝鮮からアナキズム系列の同人誌『矛盾』に短歌「漂泊途上の歌」の発表以来、解放文化連盟の結成に参加して『解放文化』と第2次『弾道』をまた1933年8月には擴大再編した解放文化連盟の機関誌『文学通信』の発行などを通して日本の中心的なアナキスト詩人になった。 1935年11月には日本無政府共産黨の委員長として活動中、アナキズム運動に対する大弾圧によって日本無政府共産党及び解放文化連盟は壊滅、植村諦も7年におよぶ獄中生活を体験した。戦後にも自分の思想を曲げずに新日本文学会と日本未来派で詩作活動を展開中、1959年脳出血によって死亡するまで日本を代表するアナキスト詩人の一人としてアナキズム運動の中心的な役目を果たした人物であった。 特に植村諦に注目することは彼が朝鮮での民衆との体験を通じて民衆解放を志向するアナキストとして自覚し、詩を通じて日帝に抵抗したという点である。朝鮮で雑誌『朝鮮及満洲』の編集者に勤めながら野長瀬正夫、岡本潤などのアナキスト詩人たちとの交流を通じて植民地朝鮮の惨めな現実は強制的で破壊的な日帝の苛酷な収奪政策にその原因があることを分かるようになった。1930年5月朝鮮の独立運動家たちとの接触事実が警察に知られて逮捕の代りに朝鮮からの追放によって帰郷するようになった時、彼は徹底的なアナキズム思想による抵抗詩人に変わった。植村諦は植民地朝鮮民衆の苦痛を一緒に体験し、朝鮮民族の解放を固く信じ、詩を通して日帝に抵抗した代表的なアナキスト詩人であったのでる。
목차
1. 서론
2. 조선에서의 우에무라 타이
2-1. 조선으로의 탈출
2-2. 조선에서의 우에무라 타이
2-3. 조선에서의 추방
3. 결론
参考文献