초록
일본어
本稿で筆者は戦後思想系文化物とは何かを説明し、1959年の『私は貝になりたい』と2008年のそれとを比較分析した。その中で2000年代に入ってなぜBC級戦犯裁判が大衆文化の領域で扱われるのか、その映画の内容はどのような具体的な歴史的事実と相違を見せるのか、その中で排除されるものとは何か、そしてそれはどのような記憶として再生産されるのかなどの「記憶の選択、操作、忘却、神話」について考察した。結論として1959年の映画は「厭戦意識」と「軍部批判」を認識のベクトルにもつものとするなら、2008年の映画は「自国防衛」と「戦争責任を受け持つこと」を狙いとするものであることを明らかにした。しかしこのような戦争責任についての認識はアメリカと日本に限られる「自閉的な認識」に過ぎず、高橋哲哉が加藤典洋の『敗戦後論』を批判して主張した「応答可能性としての戦後責任」ではないことを説明した。筆者はその結果を持って、日、韓、中などの東アジアでは「記憶」をめぐるイデオロギーのせめぎあいが進行中であることを論じ、これからの「和解」の可能性を模索した。
목차
要旨
1. 서론: ‘전후사상계 문화물’ 속의 『나는 조개가 되고 싶다』
2. BC급 전범재판과 『나는 조개가 되고 싶다』
3. 1959년과 2008년의 『나는 조개가 되고 싶다』
① 시미즈의 전쟁범죄 묘사
② 야노 사령관의 묘사
4. 결론을 대신하여-‘역사주체논쟁’과 ‘책임’
참고문헌
1. 서론: ‘전후사상계 문화물’ 속의 『나는 조개가 되고 싶다』
2. BC급 전범재판과 『나는 조개가 되고 싶다』
3. 1959년과 2008년의 『나는 조개가 되고 싶다』
① 시미즈의 전쟁범죄 묘사
② 야노 사령관의 묘사
4. 결론을 대신하여-‘역사주체논쟁’과 ‘책임’
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