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초록
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内村鑑三(1861-1930)は、日清戦争(1894-95)当時、強く開戦を主張した自分の立場を変え、十年後の日露戦争(1904-05)を前にしては非開戦,、つまり戦争を反対する非戦論に方向を旋回した。これによって当時日本では内村非難世論が激しく起り、内村は連日世論に叩かれながらも自分の所信を変えることがなかった。だれよりも偽善を嫌悪した内村鑑三は、過去の自分の歪んだ戦争観を隠すことに決して汲々しなかったのはもちろん、真理を探し求めるためにはどんは変化をも躊躇しなかったし、そのために「変説者」といわれるのを恐れなかった。その端的な例がすなわち、日清戦争当時の主戦論から日露戦争の非戦論に移行して行った彼の戦争観の変遷であり、信仰の深化していく過程であった。西洋のことわざの「智者は変ずる」を引用し、自らに逃げ道を設けた内村鑑三、彼は人生の後半に近づくに従い、信行一致の態度を取った。この信仰と行動の一致に至るまでに彼は絶え間ない内面の葛藤に直面し、この葛藤を統合し、真理を探し求めてはついにそれを発見し獲得する過程の連続が彼の人生であった。それを成し遂げるために、自分自身の変化を絶えず追求してやまなかったのが、内村鑑三がとっていた「学者の態度」であった。一方、日清戦争の義戦を主張した三十代初の内村は強烈な自我の持ち主であった。当時彼の強烈な自我と自己確信は同時代、門下生であった志賀直哉、武者小路実篤ら作家志望の人々に強い印象を与えながら彼らに継承される。しかし内村自身は次第に自分の自我を屈服させ、それを克服し自分に敵対する勢力まで受容していく人格にまで至る。その過程が本稿で考察した時期の内村鑑三の姿である。