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잉여적 선택성에 기초한「なさる」와 「される」의 사용상의 기준― 신약성서(신공동역)의 4복음서를 대상으로 하여 ―

원문정보

A Study on the Optional usage of Nasaru and Sareru in the Japanese Versions of the Four Gospels of the New Testament

李成圭

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초록

일본어

本稿では日本聖書協会発行の新約聖書(新共同訳)四福音書を対象として「する」の尊敬語形式である「なさる」と「される」の使用実態を分析することにより、両者の使用上の基準に関して検討した。本稿で考察した内容を整理すると、以下の通りである。1. 四福音書から「なさる」には、次のような使用上の基準が認められる。[1] 地文において<神>の行為に関しては、行為主体が絶対的な存在として認められ、当該行為が <神>の関与する包括的で甚大な事柄、または「証し」や「裁き」のように、聖書では神の領域に属す絶対的な権能と見做される事柄については「なさる」が使われている。これに対し<イエス>の行為に関しては、当該行為が個別的で具体的なものでなく、規模が大きく抽象度の高い神の領域に属す事柄と見做される時、これを四福音書では<神>の行為と同格に扱って「なさる」が使われている。[2] 一方、対話文では待遇表現上の一般的な規則が適用された例を除くと、全て<イエス>を高め るのに「なさる」が使われている。この時<イエス>の行為に関しては、それが個別的で具体的なものであるか、規模が大きく抽象的な事柄であるかという区分は適用されない。2. 尚「される」には、次のような使用上の基準が認められる。[3] 地文において<神>の行為に関しては、該当行為が個別的で具体的なものの場合に限って「さ れる」が使われており、また、<イエス>の行為に関しても、当該行為が個別的で具体的なものであることを表すのに「される」が使われている。[4]「される」は対話文では<ヨハネの弟子>が<ヨハネ>を高めたり、または対話文に相当する文章で は<ヨハネ>が<イエス>の行為を高めるのに使われている。 以上のように四福音書では、従来の敬語教育や日本語教育次元で述べている規範意識上の敬語使用規則とは異なり、「なさる」と「される」の敬意度の違いを、1)<神>または<イエス>であるか、その他であるかといった敬意主体の区別と、2)当該行為が包括的で抽象的な事柄であるか、或いは個別的で具体的なものであるかという行為対象の範疇的な違い、3)そして地文または対話文であるかという文体上の違いの区分に反映させている。そしてこのような「なさる」と「される」の併用は単に敬語表現の混用ではなく、飜訳者の立場から - 高度に意図された - 同一動詞の尊敬語形式に表れる剰余的選択性を積極的に活用し、日本語聖書の本文を正確に理解させるために、使用上の基準によって運用されていると解釈される。このような「なさる」と「される」における使用上の基準は、李成圭(2010a)で「おっしゃる」と「言われる」を対象に行った使用上の基準、李成圭(2010b)で「おいでになる」と「行かれる․来られる」を対象に行った使用上の基準と原則的に一致する。

목차

要旨
 1. 들어가기
 2. 복수의 존경어 형식에 있어서의 사용상의 기준
 3. 「なさる」의 사용실태와 그 사용상의 기준
  3.1. 「なさる」의 사용실태
  3.2. 「なさる」의 사용상의 기준
 4. 「される」의 사용실태와 그 사용상의 기준
  4.1. 「される」의 사용실태
  4.2. 「される」의 사용상의 기준
 5. 맺음말
 参考文献

저자정보

  • 李成圭 이성규. 仁荷大学校 文科大学 東洋語文学部 日語日本学専攻 教授, 日本語学

참고문헌

자료제공 : 네이버학술정보

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