원문정보
초록
일본어
本稿では日本聖書協会刊行による新約聖書(新共同訳)の4福音書を言語資料として、ナル型敬語とレル型敬語が混用されている例の中から、6つの動詞を対象に、これらの形式が果して如何なる基準によって使い分けられているかという使用実態を具体的に検討することにより、両者の使用上の基準を考察した。本稿で考察した内容を整理すると、以下の通りである。[1] [ルカによる福音書]では、奇跡を行う<イエス>の行為に対しては、甚大で抽象度の高い事項として把握し、このような<イエス>を<神>と同格と見なし「お帰しになる」が使われており、<イエス>による行為であっても行為の対象が特定されており、個別的で具体的な事件として把握される場合には「帰される」が使われている。[2] [マタイによる福音書][マルコによる福音書]では、<イエス>の行為が甚大で抽象度の高い事項として把握される場合には「お教えになる」を使用しており、<イエス>の行為が個別的で具体的な事件として認識される場合にはレル型敬語「教えられる」を使用している。[3] [ヨハネによる福音書]では、<神=父=あなた>の行為については「お与えになる」を使用しており、<イエス>の行為に対しても、イエスの神的な存在を強調するためにナル型敬語が使われていることが確認される。一方、同じ<イエス>の行為であっても当該行為が具体的で個別的な事件を意味する場合には、相対的に敬意度の低い「与えられる」が使われている。[4] [ヨハネによる福音書]では、<父=神>の行為に対し、[マタイによる福音書][マルコによる福音書][ルカによる福音書]では奇跡を行う<イエス>の行為に対して「お命じになる」が使われている。一方、<父=神>に関する事項であっても当該行為が神の絶対的権能を積極的に意味しない場合に、[ヨハネによる福音書]では敬意度の低いレル型敬語を使用している。また、[マタイによる福音書][マルコによる福音書]では<イエス>の行為に対し、行為対象が特定されており、当該行為が個別的で具体的な事件を意味する場合には「命じられる」が使われている。同様に[ルカによる福音書]では<イエス>の行為の中で奇跡のように<神>の絶対的権能に属する事項である場合でも、当該行為が個別的で具体的な事件として把握される場合にはレル型敬語が使われている。[5] [マタイによる福音書][マルコによる福音書]では、<神>の行為に対して「お造りになる」が使われている。一方、[ルカによる福音書]では、同一文において<神>の行為に対して「お造りになる」と「造られる」が混用されているが、本稿では文末で強い反問を提起するために短形のレル型より長形のナル型に否定表現を接続した方がより相応しいと判断してナル型敬語が選択され、これによってその前に来る連体修飾節では短形のレル型敬語が使われたと解釈する。[6] [マタイによる福音書]と[ルカによる福音書]では<父>の行為に対し「お示しになる」が、そして[マルコによる福音書]では<人間イエス>としてではなく、絶対的権能を備えた<神>と同格と見なす場合、<主=イエス>の行為に対し「お示しになる」が使われており、[ヨハネによる福音書]では<独り子である神>に対して、その上位に位置する<神>に対する敬語的配慮からナル型敬語ではないレル型敬語が使われている。一方、<父=神>の行為に対して同一文においてナル型敬語とレル型敬語が混用されている例もあるが、同一なる<神>と関連した事項であっても行為内容の範疇的な違いに基づいて個別的で具体的な事件を意味する場合にはレル型敬語が、包括的で抽象度の高い<神>の絶対的権能に属した事項を意味する場合にはナル型敬語が選択的に使われているという行為内容における異同が指摘される。以上のように本稿で考察対象とした6つの動詞のナル型敬語とレル型敬語の使い分けにおいては、1)<神=父=あなた(父)=主(イエス)>又は<イエス>であるか、その他であるかという敬意主体の区別、2)当該行為が甚大で抽象度の高い事項であるか、若しくは個別的で具体的な事件であるかという行為内容の範疇的差異、3)地の文であるか対話文であるかという文体上の差異など様々な要因が個別的かつ多重的に関与している。そしてこのようなナル型敬語とレル型敬語の混用は、単に表現上の技巧を目的とした同一敬語形式の反復を避けるためのものではなく、飜訳者の立場から - 高度に選択された(意図された) - 同一動詞に複数の尊敬語形式が存在する場合、その余剰性を日本語聖書における敬意主体の区別に反映させている。以上、複数の尊敬語形式が混用されている6つの動詞から観察される使用上の基準は、李成圭(2010a)で「おっしゃる」と「言われる」を対象に行った使用上の基準、李成圭(2010b)で「おいでになる」と「行かれる․来られる」を対象に行った使用上の基準、李成圭(2010c)で「なさる」と「される」を対象に行った使用上の基準と概ね一致する。
목차
1. 들어가기
2. 「お帰しになる」와 「帰される」의 사용실태와 그 사용상의 기준
3. 「お教えになる」와 「教えられる」의 사용실태와 그 사용상의 기준
4. 「お与えになる」와 「与えられる」의 사용실태와 그 사용상의 기준
5. 「お命じになる」와 「命じられる」의 사용실태와 그 사용상의 기준
6. 「お造りになる」와 「造られる」의 사용실태와 그 사용상의 기준
7. 「お示しになる」와 「示される」의 사용실태와 그 사용상의 기준
8. 맺음말
参考文献