원문정보
초록
일본어
佐多稲子のはじめての朝鮮旅行は1940年、朝鮮総督府鉄道局の招請によるものである。6月16日に東京を出発し、下関から連絡船で釜山に渡って京城、開城、平壤、それから金剛山を含め慶州を回り、6月28日に帰国する。翌年1941年、満州日日新聞社の招待で満州を旅行し、帰り道で再び朝鮮を訪問する。二回の旅行を「朝鮮の子とその他」、「朝鮮印象期」、「金剛山にて」、「朝鮮のあれこれ」などのエッセイに残している。それでは作家はこれらのエッセイを通して何を描こうとしていたのか、また朝鮮をどう認識していたのか。プロレタリア作家時代反戦的な姿勢を堅持していた佐多稲子は、戦時期には国策に積極的に協力し、徵用作家として活動する。そして戦後には作品を通して戦争協力の原因を追求しながら自己批判をしている。このような一連の作家の思想的な変化は朝鮮に対する認識と並行に進行している。朝鮮少女を通して、また朝鮮女性を通して、階級的な連帶意識から植民地の現実に対する無意識を假裝した傲慢へ、以後にはまた小説を通して自己反省へ推移していったのである。佐多は朝鮮体験を通して言語の問題に注目する。朝鮮を二言語状況と認識していたのである。「あなたたちは朝鮮語を覚える必要がないんです」という全貞姬の<私>への発言は、同じ二言語の状況でも日本から移動してきた植民者の日本人と被植民者の朝鮮人には違う現実であることを物語っている。また朝鮮女性の創作での言葉の問題を取り上げている。朝鮮の女性は日本語でも韓国語でも自分の文章を完璧な作り出せない言葉の分裂状態に悩んでいる。作家は植民地末期の二重語創作の問題を、作家志望生の朝鮮女性を通して顯在化させている。日本語を排斥せず、朝鮮語にも執着しない。「人間の微妙な心理」が書ける作家になりたいという個人の問題なのである。これまで、植民地末期朝鮮人作家の日本語創作活動は、いわゆる「親日文学」の範疇で論じられ、文学研究から解除されてきた。しかし作品の中の全貞姬を見る限り植民地個人において日本語創作は、親日や反日など政治論理からでは説明できない面を呈している。小説の中に描かれている朝鮮の二言語状態は、二重語の創作をめぐる多様な側面や可能性を示していると思う。
목차
1. 들어가며
2. 조선체험이전의 조선‘체험’
3. 조선체험에서의 조선ㆍ조선인 인식 -〈이언어상황〉의 발견
4. ‘돌아보는’ 조선체험
5. 나오며
참고문헌