초록
일본어
15世紀の日本における東アジア絵画史観を覗う上で、寧波出身の文人画家、金湜は特筆すべき存 在である。 明・正統6年(1441)挙人。明・天順8年(1464)2月、憲宗(成化帝 在位1464-1487)の即位を 知らせるために、正使として一品服を賜い、朝鮮に赴いた(7月帰国)。帰途に着いたのは6月で、翌月に は帰国した。その後、間もなく致仕して故郷の寧波に戻り、30年に亘って私的な生活を送ったが、寧波 文人の詩社、高年詩会(社会)に参加して東アジアの様々な訪問者たちを迎えており、日本の応仁度・文 明度の遣明使節と寧波で交わった。つまり、韓国人・日本人らと交わした言葉が文献から知られ、実際 の交流の様を窺い知ることができることになる。 金湜は墨竹などを得意とし、自らの画を国王らに送り、当時流行していた画竹の法を画員画家で あった安堅らに直接伝えたという。同時に、明使への沢山の進物の中に四幅の掛軸があり、それを郭 煕より優れた「絶世の画」である、と評したという。高麗時代、郭煕の真作が国王に送られており、そう した伝統を受けて、朝鮮王朝前期の山水画では李郭派が主流であった。その代表作が金湜と接触が あった安堅「夢遊桃源図」(天理大学附属図書館)であり、金湜は朝鮮王朝画壇のそうした意識を明 確に理解していたことになる。 又、雪舟等楊(1420-1506?)は渡明時に応仁度遣明使節の一行として金湜に面会したと推測され る。後に彼の家を訪問した日本人、禅金子西が彼の家の壁の左右に雪舟画「(虎渓)三笑図」「商山四 皓図」が掛けてあるのを目撃している。金湜が目睹した日本絵画は実際に複数伝存しており、金湜は南 宋絵画を重視する日本画壇の傾向を的確に理解していたことが窺える。 つまり、金湜は日本人には夏珪など南宋絵画を共通語彙としてイメージについて語り、朝鮮王朝 においては郭煕や画竹を題材にして対話しており、金湜によって東アジアの相互理解の実態を見て 取ることができる。 近年、朝鮮王朝前期の山水画、「文清」印が捺された「山水図」(個人)が見出された。この図では 朝鮮王朝前期の山水画の造形語彙が見出すことができるが、北宋時代山水画の名品、郭煕「早春図」 (台北故宮博物院 1072年)に酷似している。元・唐棣(1285-1355)「秋景山水図」(台北故宮博物院) など、北宋画の原図に忠実な元時代李郭派の作例と比較しても古様さを厳密に保っている。とすれば、 この作品は朝鮮王朝において郭煕画の真作(もしくはそれに極めて近いもの)を忠実に模写したものと 解釈すべきで、高麗時代の時点で既に入手困難であったことから、その原図は神宗が下賜した郭煕の真 作の一つに相当する可能性も否めない。先に見た金湜の、郭煕より優れた「絶世の画」という評価も、こ うした画に対する評価であったと考えることもできよう。とすれば、本図の再発見は朝鮮王朝前期の山 水画の展開を考える上で極めて重要であるだけではなく、当時における東アジア絵画史観を覗う上でそ の視点を一変させるほどの重要な意味を持っていることになるのではなかろうか。
목차
2. 雪舟·金湜·安堅-つながる東アジア
3. 新発見された朝鮮王朝前期の李郭派山水図-新たな展望
Abstract
