초록
일본어
本論考察では、柳田の「鄕土硏究」からからみられる研究方法に関する「道程」を明らかにしようとしたものである。柳田は日本内部の「過去」を研究することを「西欧」のハイネから学び、本居と平田の方法論を応用する研究方法、つまり混合性を育てていた。それは、初めには新渡戸稲造が提示する「地方学(ヂガタガク)」を受容していた。それをきっかけに「郷土」を認知することになり、田舎と農村を研究する方法を「受け入れる」こととなった。ところが、柳田は新渡戸が主張する地方経済に関心を持ち続けながらも「新しい」地方学を煩悶していた。その結果として、柳田は『郷土研究』という雑誌を編集することになった。高木敏夫の力を借り、『郷土研究』を運営していったが、高木とも方法論的差異が浮かび上がってくることで、高木は『郷土研究』から手を引いていった。つまり、柳田は自分の意思、つまり「地方の資料」を掲載し、学問的な論考を選考しなかったことが、大きな違いであった。これをもって、柳田一人で雑誌を発刊していくのであるが、やはり内容に関して、南方熊楠からも批判をうけることになった。柳田は、「巫女考」と「毛坊主考」などの原稿を掲載し、漂泊民への関心を露にした。これは、また、南方から山人論は批判をうけることになるが、その「山人」が理論的に正しいとか間違っているとかのことより、柳田が「定住」ではなく「漂泊者」に関心をもっていたことが重要であろう。つまり、柳田は一般論的な「一般」から離れていて、まるで、一人の「認識」を形成していく道程の真ん中に立たされていたことが、見え隠れしている。つまり、柳田は新渡戸と南方とは違った「地方学」を考えていたし、高木とも異なる「伝説」論への「認識」を形作っていたのである。それは、また折口ともまた違った「方法論」を持つようになった。折口のような文献中心主義とはまた距離をおくことで、郷土研究の新しい方向を「独自」に切り開いていたのである。その一端が『郷土研究』に携わっていた時期の柳田の新しさであったことが浮かび上がった。
목차
Ⅱ. 야나기타 구니오 사상의 다양성
Ⅲ. 야나기타의 ‘전통 인식’
Ⅳ. 야나기타의 방법론과 ‘향토’ 연구
Ⅴ. ‘향토’ 해석을 둘러싼 갈등
Ⅵ. 향토 이데올로기 형성
Ⅶ. 맺음말
<參考文獻>
要旨