초록
일본어
本論文は、『日本誌』を翻訳した『鎖国論』が、江戸時代の国学者にどのように受容されたのかについて、大和魂の意味の変遷を中心に考察したものである。『日本誌』は、ドイツ人ケンぺルが、17世紀後半、長崎に商館医として滞在中、見聞したことを元に記したものである。1801年、蘭学者の志筑忠雄が翻訳した『日本誌』の付録にあたる部分は、写本『鎖国論』として流布された。そこには日本の自然や風習に関する記述がみられるほか、日本の鎖国政策に対しても肯定的に言及されている。1850年、国学者の黒沢翁満は、『鎖国論』を改めて『異人恐怖伝』として刊行した。蘭学書、外国船舶の来航によって損なわれた大和魂を「鎮める」ことが、それらに対抗できる力として必要であるとの見解を持ち、刊行の目的として示している。ただ、そこには平田篤胤の影響が強くあった。『鎖国論』には、特に日本について恵まれた自然環境、日本人の気質などを称えている記述が多いため、篤胤をはじめ江戸後期の国学者に、日本の優秀さを説く客観的資料として受容された。この受容のされ方は平田篤胤以降、彼の著作に依拠する形で受け継がれていく。翁満もその中の一人であった。賀茂馬淵や本居宣長の影響を受けた篤胤は、大和魂について、彼らの解釈にはなかった「勇敢さ」という意味を付け加えた。それは宣長が漢学によって惑わされないよう、大和魂を堅く持たなければならないと説いたことと相通じる。『鎖国論』が翻訳され、篤胤や翁満の生きた時代は西洋に対する脅威認識が夥しかった。日本の人々が、西洋の学問に惑わされず、また、西洋に対する恐怖に立ち向かうために、「勇敢さ」が求められたのであり、結果、この時期、大和魂の意味に変遷をもたらしたのである。ケンぺルの『日本誌』は、19世紀の日本において、外国に対する優越意識を支えると同時に、恐怖感・不安感を取り除くための新たな言説を作り出したという点で、重要な役割を果たしていた書物といえるだろう。
목차
Ⅱ. 『일본지』와『쇄국론』
1. 유럽에서의『일본지』 출판
2. 일본에서의『쇄국론』의 유포
3.『쇄국론』의 내용
Ⅲ. 구로사와 오키나마로와『쇄국론』
Ⅳ. 히라타 아쓰타네와『쇄국론』
1. 일본의 천혜의 자연환경
2. 일본인의 타고난 용맹성- 야마토다마시이
Ⅴ. 맺음말
<참고문헌>
要旨