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本稿では、近代の日本や中国の哲学、とりわけ日本の京都学派の創始者である西田幾多郎と中国の新儒家の代表である牟宗三との視点から、共死と共生における主体性及び共存を考察しておきたい。近年、共生という言葉及び概念は、グローバル化世界による文化の多様性への対策が見られ、しばしば言及されている。一方、共生を究明する際、それと表裏一体の概念である共死はあまり触れておらず、忘却されている。しかし、両者は共に検討すべきだと思われる。その中に生及び死は、生物的な意味を取り扱うことではなく、哲学的に、いわゆる死と生の普遍性を追求しようとする。また、その二つの概念において、文字通り単なる死と生のみならず、「ともに」ということから断裂できない。つまり、誰が共に生きるという主体の問題がさらに見出され、どのように共に生きるのか、また共に生きることができるのかという共存の課題である。したがって、共に自己否定として共死の意味により、共生が可能になると過言ではないだろう。それは、和辻哲郎が指摘したように、個人を否定して全体性を成立する一方で、他方では、全体性を否定して個人を成立する。そのような否定の両面性によって、共存することもできるのではないかと考えられる。
목차
1. はじめに
2. 共死と共生―表裏一体の課題
3. 共死と共生における主体性の問題
4. 主体性から共存への可能性
要旨
2. 共死と共生―表裏一体の課題
3. 共死と共生における主体性の問題
4. 主体性から共存への可能性
要旨
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