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일본의 실학자 계보

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日本の實學者系譜

한예원

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초록

일본어

東アジア三國は、儒敎文化圈あるいは漢字文化圈という共通の分母をもってい るから、中世の解體期、即ち近代への歷史過程において、共に實學が登場され たという前提の下で、「韓ㆍ中ㆍ日の東アジア實學硏究會」を営んで共同硏究 を進めてきたのがもはや15年にもたった。 しかし3個國の實學は、各國の社會的․文化的な母盤の差異によって、實學 的な內容や特色などはそれぞれ独自的に展開された。だからもっと各國における實 學硏究の成果を交換し、綜合的に東アジアの實學を把握する必要性を感じる。 小考は韓國の實學についての研究立場から、日本の實學を眺めて分析したも のである。日本の硏究者たちは、実に實學というテーマについてあまり關心を持っ ていない。實學槪念についても統一した意見がまだ出来でいない状況でもある。 だから他者の觀點からの日本實學についての硏究は、日本自國の思想·文化を 新たに眺める際、新鮮な刺戟になることを期待する。 まず實學槪念である。現在の實學槪念についての韓國側の共通の認識は、 “形而上學的であり思辨的な學風によって、非生産的な論爭が慢性化されている か、ある理念と體制に縛られて時代の現實から離れていく際に、それを克服するた めに現實に卽し實際の事情に卽した科學的な把握によって問題の解決を追究しよう とした學問の方向”である。 韓国實學において克服の對象になったのは、朱子學的な思辨主義である。し かし朱子學は、韓·中·日の各國の歷史的な狀況において、相異なる役割を果た した。日本の場合は、中世の精神史を代辯する佛敎的な思惟を克服するための 起爆制の役割を擔當したので、むしろ實學的な思惟への萌しと見ることが出来 る。それで少考では、日本朱子學を實學形成期の中身として考察した。 このような見方は、確かに日本の近代の黎明期において、實學という槪念を天 下に通用させた福沢諭吉の「實際的に役に立つ學問」、即ち「實業學」として の實學槪念とは距離がある。 のみならず以後の福沢-丸山の實學槪念に贊同する科學史の分野での日本實 學の概念とも距離がある。 むしろ日本史および日本思想史の硏究分野で、丸山の「實學への轉回」と いう主張に反論を提起した源了園の儒學的な立場での實學槪念に近いと言える。 ただ少考と源了園の旣存の硏究との違いは、分析の基壇に朝鮮實學の展開の 樣相をおいて、比較的に考察するという点であろう。 まず小考では、日本實學の形成期から發展期に到る過政に属する實學者と、 その實學の內容を考察した。この中で境界人の役割を果たした者は、言うまでもな く荻生徂徠である。徂徠の緻密で文獻主義的な古學が形成されるまで、日本の 近世儒學は何回も熾熱に戦わなければならなかったのである。 實學の形成期は前·後に分けた。前期は朱子學を受容して人間的な眞實を追 究し、またその道德的な實踐に励んだ時期である。後期は合理主義的な古學が 形成された時期である。特に朱子の權威から抜け出して、孔子ㆍ孟子の根源を 求めていた古學が形成され發展された。 實學の發展期は、實證的な硏究方法である古文辭學を通じて古學を成し遂げ た時期である。これ以後、日本の實學は誠に多樣に展開された。その多樣さの 中でも、共通の土臺になったのは、徂徠の古學に到る批判的に学問の受容姿勢 であろう。 日本で新たに学問を受容する際に、日本人が日本という土地で生活し、日本 社會という現實の中で適用できる学問を選択し、又その中身を變容ㆍ修正ㆍ批 判する段階を経て、受容ㆍ展開ㆍ發展させていたということに注目する。仮に適 用に向いてない場合は、どんな學問的な權威も認められなく、如何なる扱いも受け なかったということである。このような姿勢は、徂徠以後、西洋の學問體系を受容 する際においても生かされ、實學的な批判の見方が堅持された。少考で取上げ なかった徂徠以後の「實學の轉換期」については、次回に回す。

목차

Ⅰ. 머리말
 Ⅱ. 실학 형성기
 Ⅲ. 실학 발전기
 Ⅳ. 결론
 참고문헌
 日文要旨

저자정보

  • 한예원 Han, Yae-won. 조선대학교

참고문헌

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