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초록
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本稿は韓國近代期の陽明學者として知られている朴殷植(1895~1925)と日本 陽明學との交流などその關聯性について檢討することである。 朴殷植の陽明學に對する關心は彼の52歲(1910)のとき著わした王陽明先生 實記によく示されてある。これには支離煩雜な朱子學を克服し簡單切要な陽明學 の學說卽ち知行合一, 致良知, 事上磨鍊, 萬物一體などを根幹とした儒敎求新 を主張し、さらには大同主義を闡明するのである。 朴殷植の日本陽明學との交流の迹は、當時日本陽明學會の主幹東敬治に 送った手紙卽ち「再與日本哲學士陽明學會主幹東敬治書」․「日本陽明學會主 幹에게」などによく示されてある。「與韋庵書」には,「盖陽明是道學家也政治家也 氣節家也至于今日此學大昌于世日本維新豪傑多是王學派支那學家亦多宗 王學以其知行合一論爲適於時宣也至於西洋哲學家梭格抵底康德比圭梨之 學說亦與知行合一之旨暗相符合則更何疑於王學乎弟之撰陽明年譜及陽明 詳傳(日本高瀨武次郞所箸)傳習錄明儒學案諸書而綜成之者也」とあり、また、 「再與日本哲學士陽明學會主幹東敬治書」には、「盖陽明是活用孔孟之學者 也貴國諸賢又活用陽明之學者也故維新豪傑多是姚江學派其實効之發展優 於支邦者遠甚況至今日繼以貴會之益加昌明則其有裨于精神敎育者何可量 也貴國旣以西洋物質大振國力又以東亞哲學培養民德文明事業克圖完全是 果何登力量耶」とある. こういったことから、彼が、陽明學が日本社會に深く影響 をあたえており、なお近代という世界史的變化に日本がうまく對應することができたの もまさに陽明學の受容にあるものと理解していた、ということが分る。 今後朴殷植において近代日本陽明學との交流がどのように行なわれたのか、と いう理解はより根本的に彼の日本觀についての考察が先行されなければならないで あろう。このため朴殷植全集にある近代史關聯または日本批評關聯資料(たとえば「韓國獨立運動 之血史」, 「韓國痛史」等)をもらさずに檢討する必要があるだ ろう。これらは、彼の日帝植民地政策、アジアの近代についてどう理解していた のかがわかる主な資料になるであろう。
목차
2. 박은식의 陽明學觀 - 王陽明先生實記를 중심으로
3. 朴殷植과 日本陽明學과의 交流
4. 나오는 말
《참고문헌》
[부록] 高瀨武次郞著王陽明詳傳 目次(숫자는 쪽 수)
日文要旨