원문정보
초록
일본어
明治維新を通じて日本が志向した近代性は西洋の政治構造を取り入れて 近代國家としての面貌を取り揃えることと同時に國家の本質を成す日本人として のアイデンティティを創造するのだった。1885年に內閣制度の樹立,1886年學 校制度の整備,1889年憲法發布で立憲國家としての面貌を取り揃えた日本は 明くる年,1890年敎育勅語發布で天皇制が制度的ㆍ精神的に完備されて 行った。美術分野は1889年に東京美術學校の設立をきっかけで美術の制度 化は飛躍的に發展して行った。日露戰爭後東京美術學校に西洋畵科が設 置されながら西洋美術をどのように日本の敎育制度の中に取り入れるかというこ とが最大の觀心事だった.しかし、漸次的に西洋美術の勢力が拡がりながら西 洋美術を單純に收容するよりは日本の情緖と風土に當たるように變形させなけ ればならないという意見が壓倒的に廣く擡頭した。それは1900年にパリで開催 された世界博覽會で西洋美術の成績が低調で西洋美術の勢力に押えつけら れていた日本美術家たちの不滿の表現でもあったが、日本が亡びるという悲 壯な覺悟で臨んだ露日戰爭で勝利によって日本の大衆は强く日本民族と國 家を意識し始めた。政治もこれを助けで世界と堂堂と自立する日本のイメ-ジを 新たにつくろうと思った。 文展はそのような狀況のなかで開催されたのだ.露日戰爭の翌年、文展開 催の決定が出たが、黑田はその以前から政府が主導する展覽會の必要性を 力說した。彼は具体的に政府が美術界全般を指揮,監督する政府傘下機構 が設置されなければ美術が“秩序ある發展”ができ、“日本人の趣向に相應し くて,日本に根據を置きながら西洋人に称尿受けることができる”美術品を作り上げることができると申 し立てた。その後、文展の開催が決定されると黑田は“日 本的という精神を忘れない”美術を作られなければならないという主張と合せて “政府下に統一”になった“一種の學士會”のような機構を立てて美術界全般を 統一,監督して,美術家養成と展覽會開催などの仕事を任せて美術發展を成さ なければならないと言った。 黑田を含めた多くの美術家,美術行政家の要求どおり“一種の學士會”のよう な帝國美術院が設立されて美術全般の仕事を擔當した。この機構の成立に より、美術はまさに“秩序ある發展”が要求され、政府が容認しない畵風と新し さを追い求める美術家たちは國家から排斥された。そして御用作家のみを養成 する機構で轉落した。政府が文芸保護振興という名目で芸術統合に出る夏 目漱石は“政府が國家的事業の一端として、保護獎勵を文芸の上に与へんと するのは、文明の當局者として固より當然の考へである。けれども一文芸院を 設けて優に其目的が達せられるやうに思ふならば、恰も果樹の栽培者が、肝 心の土壤を問題外に閉脚しながら、自分の願に入つた枝丈に袋を被せて大 事じ懸ける小刀細工と一般である”と指摘した。漱石は政府による文芸保護獎 勵は自由な芸術の創作のためののではなく、國家が願う芸術のみを獎勵する ためのことだと思っていた.漱石の予測どおり日本の文芸は制度化を通じて思想 的統制をいっそう强化して行ったのだ。
목차
Ⅱ. 사이온지 킨모치의 미술행정과 구로다 세이키
Ⅲ. 일본적 미술 창출의 동향
Ⅲ.구로다 세이키의 미술원 구상
Ⅳ.미술원 설립운동과 오카쿠라 텐신의「미술교육시설에 관한 의견」
Ⅴ.미술원 설립운동과 문부성 미술전람회 개최
Ⅵ.제국미술원의 설립
Ⅶ. 마무리
日文要旨