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本稿では、江戸幕府の切支丹迫害に至る道程と元和ㆍ寛永の大殉教を調べ、その時代とキリシタン迫害が芥川龍之介の「おぎん」にどう描かれているかを考えてきた。芥川の注目していたのは、キリシタンの中でも庶民であった。キリシタン大名や武士たちは、全国的な禁教政策が進められるにつれて、封建的身分を保つために棄教したのに対して、殉教者が多く出たのは庶民の中からであった。秀吉、家康が自己神格化絶対化を強めていくことにより、絶対唯一の神を信じ、絶対的封建政権の神格や異教との妥協を許さないキリスト教との衝突や対決は不可避なことであった。キリシタンたちが法の秩序を無視し、幕府の命令で死刑された者のためにミサを捧げたことは、儒教倫理に基づいた封建秩序を否定することであった。幕藩の命令に従わず、火焙りや斬首にも身動きもしない庶民の殉教者がたくさん出てくることに恐れを感じた徳川幕府は、キリシタン宗門の存在を許容できなかったのである。こういう時代背景の中で、芥川龍之介は、東西文明の衝突、儒教に基づいた根幹や神道、仏教という宗教文化を揺るがすと言われたキリスト教に注目し、「肉親の情愛」のために棄教する庶民たちの物語「おぎん」を書いた。芥川龍之介の「おぎん」は、元和、寛永の大殉教の時代を背景にしている。この時代には、公式的に四千人以上が殉教した。おぎんのような信仰を持っていた人なら、喜んで殉教の道を選ぶ時代であった。しかし、そこで「おぎん」というころびの物語を、芥川が書いた理由は何であろうか。おぎんは、キリシタンで拷問にも耐えている。孫七は、養父母として、育ての肉親の情を切ることができなく、ころびとなる。確かに日本の精神文化を描いている。しかしおぎんの棄教で終わりであるとは見えない。「杜子春」では、もし、杜子春が地獄で苦しんでいる両親を見ながらも、仙人の命令に従って、「お母さん」と呼ばなかったとしたら、彼を殺そうとしたと言いながら、彼に人間として生きていける生活を与えた。「おぎん」でもころびで終るのではなく、「涙の谷」を歩いていくおぎんに与えられるであろう、新しい可能性が提示されていると考えられる。
목차
2. 元和の大殉教
3. 寛永の「島原の乱」
4. 「おぎん」における殉教の心
5. 「流人となれるえわの子供」の心
6. おわりに
[參考文獻]
<要旨>