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초록
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『万葉集』に殘されている赤人歌は、それに人麻呂歌と類似する表現が多く見られることから、人麻呂歌の縮小再生産にすぎない、と評価されてきた。しかし、人麻呂歌から赤人歌への影響は認められるものの、人麻呂歌との類似性のみに注目した結果、赤人歌の特徵を見逃していたのではなかろうか。そこで、本稿では、人麻呂歌にも赤人歌にも見える「いにしへ思ふ」․「いにしへに ありけむ人」という表現を檢討することによって、赤人歌の特徵を明らかにしたい。まず、「いにしへ思ふ」の表現の見える歌から見てみよう。人麻呂歌である、③二六六番歌は「いにしへ」と話者のいる現在が異質なものとして、①四六~四九番歌は「いにしへ」と現在が同質なものとして、重なり合っている。それによって、各々悲嘆と讚美という話者の心情がより强調されることになる。それに對し、赤人歌である③三二四~三二五番歌は、歌の中で「いにしへ」と現在とが重なり合っていない。そのため、長歌前半の表現から讀みとれる明日香古都に對する讚美の心情と、後半の表現から讀みとれる回想による悲嘆の心情とが、交わることなく歌は終わる。續いて、「いにしへに ありけむ人」の表現の見える歌を檢討してみよう。人麻呂歌である④四九七番歌と人麻呂歌集の歌である⑦一一一八番歌は、三句目までの表現がまったく同じで、三句目の「我がごとか」の表現から、「いにしへに ありけむ人」と話者との重なり合いが見てとれる。それによって、話者の心情は普遍性が獲得される。赤人歌の③四三一~四三三番歌には、「いにしへに ありけむ人」と話者との重なり合いが確認できず、「遠く久しき」ものとして「いにしへ」が歌われている。以上、人麻呂歌では、「いにしへ」と現在との重層化が確認できることを明らかにした。それによって、歌の主題が强調されるようになる。人麻呂歌の「いにしへ」は歌の中で現在を根據づける役割を果たしていた。これに對し、赤人歌では、「いにしへ」と現在との重層化は確認できず、「いにしへ」を懷かしむことそのものが目的化としている。つまり、赤人こそが「いにしへ」を懷かしむ歌人であったのである。
목차
2. 「いにしへ思ふ」
2.1 人麻呂歌(③二六六)の「いにしへ思ふ」
2.2 人麻呂歌(①四五~四九)の「いにしへ思ふ」
2.3 赤人歌の「いにしへ思ふ」
3. 「いにしへに ありけむ人」
3.1 人麻呂歌の「いにしへにありけむ人」
3.2 赤人歌の「いにしへにありけむ人」
4. むすび
[參考文獻]
<要旨>