원문정보
곡기윤일랑의 『문장독본』일고찰 -비트겐슈타인의 분석철학이론과의 비교를 통해-
초록
일본어
本稿では、谷崎潤一郎の『文章読本』を分析哲学が言語そのものを対象にしていることに着目して、音声中心主義理論と分析哲学という二つの西洋哲学の観点から『文章読本』を比較考察してみた。第一に、音声中心主義と『文章読本』との比較考察では、音声中心主義理論が文字の限界性、例えば、音声言語の多様で独特な意味表現の不能の限界などを持っているのに対して、『文章読本』でも言語の、思想に一つの形態を与えてしまう欠点があるという音声中心主義との関連性が発見できた。第二に、分析哲学と『文章読本との比較であったが、ここでは理想言語と日常言語、そしてウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を各々『文章読本』と比較して考察してみた。まず、理想言語と日常言語との比較であったが、分析哲学では、日常言語が言語としての矛盾を持っているため、理想言語の必要性を主張し、その理想言語の条件として言語の便利性を強調した。それに対して『文章読本』では、口語体の限界性を説明した。またその限界を克服するためには、言語の実用性を強調したが、これは分析哲学の主張する内容と一致するところであった。 最後に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と『文章読本』との比較考察であるが、ここでは『論理哲学論考』で言及されている「神秘的」という用語の持っている意味である言語の限界性と関連して考えてみた。何かをそのまま叙述することができない言語の限界性を意味する「神秘的」という用語は、文章読本でも、言語と文字には表現できることとできないことがあるので、その限界性を知るべきだというふ風に説明していて、論理哲学論考との類似性が発見できた。しかしながら、『文章読本』では一つのことを敷衍して説明していた。それは、そのような言語の限界性は認めるものの、作者はその限界を克服しようとする努力を止めてはいけないということであった。
목차
본론
1. 음성중심주의와 다니자키의 언어관 비교
2. 분석철학과의 비교
결론
[參考文獻]
<要旨>