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초록
일본어
榮山江流域の前方後圓墳の被葬者は在地首長說がもっとも近いという結論に到達した。榮山江流域が百濟から壓迫されはじめる熊津遷都の後、この地域社會の首長達は內部的な結束し、自立を摸索する。これを象徵するのが前方後圓墳であり、その大きさを極大化させるモデルとして倭系古墳の外形的樣式を導入した。これはこの地域と北九州勢力との長年にわたった交流の結果である。同時期に蟾津江, 洛東江流域の加耶地域も東西の强大國によって侵蝕される危機的な狀況であったため、その餘波が榮山江流域にも及んだ。前方後圓墳の存在が百濟に対する自立の誇示であり、地域社會の內部的な結束を高める政治的宣言でもあり、首長層を中心とした共同體社会の危機狀況を脫出するための最後の抵抗でもあった。このような努力にもかかわらず、榮山江流域は百濟の武力の前に、吸收されてしまうという悲運を迎えた。加耶地域の高靈 金海, 咸安よりも生産性が高かった廣大な立地條件を備えたにもかかわらず、6世紀2/4分期を越えずに、解體されてしまったのは求心的な役割をする强力な盟主の出現がなかったからである。
목차
1. 서언
2. 前方後圓墳 조영시기의 백제와 왜국
3. 백제의 남방진출과 영산강유역 지배
4. 영산강유역과 왜
5. 前方後圓墳 피장자의 실체와 성격
6. 결어
參考文獻
2. 前方後圓墳 조영시기의 백제와 왜국
3. 백제의 남방진출과 영산강유역 지배
4. 영산강유역과 왜
5. 前方後圓墳 피장자의 실체와 성격
6. 결어
參考文獻
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