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古代の仏教彫刻に見る祈願と表現 ― 日韓中の比較を通して ―

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長岡龍作

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초록

일본어

東アジアの三国の仏像の造像銘には、共通して死後他界に往く願いがあらわされるが、救済観には違いがある。中国と日本の例では、死後の成仏(到彼岸)が、造像後の行為を誓願することによって期されているのに対し、朝鮮半島の例では「仏に見え法を聞くこと」への期待のみが示される。仏教造像はそのような祈願に対応して表現されると考えられる。 雲岡石窟第十一窟東壁最上層の造像は、太和七年(483)に造られた。最下部にある銘文の両側に、俗人像が五十四体あらわされているが、これは五十四人の造像者に相当する。彼らが自身の姿を造像内にあらわしたのは、造像者自身の身代わりとなる像を作るという意図があったことによると考えられる。造像者は、理想世界の着衣を纏った自らの像をあらわし、霊鷲山で仏に向かって誓願するという行為を代替させている。像が人間の代わりに仏との出会いを果たしている。 三国時代韓半島の三体の作例、辛卯銘如来三尊像(571年)、丙辰銘釈迦如来光背(596年)、甲寅年銘光背(594年)の銘文を確認すると、祈願を成就する者という部分にやや相違があるが、いずれも見仏聞法への強い期待のあることが共通している。したがって仏像は見仏のイリュージョンをもたらす役割があったと考えられる。 一方、623年に造られた飛鳥時代日本の法隆寺金堂釈迦三尊像は、光背裏の銘文で、第一に、造像者である「王后、王子、諸臣」が「上宮法皇」(聖徳太子)のために、法皇と同じ大きさの釈迦如来像を造ると誓願し、その力によって法皇が浄土に登り成仏することを、第二に、先の誓願どおりに造像し、それによって造像者自身の現世の安穏と「到彼岸」(悟りに到ること)を願っている。到彼岸を目指すとき彼らは、すでに亡くなっている三人に従って、仏道に励むことを誓願している。釈迦三尊像はこのような願いを持った造像者のために機能した。それゆえ、三尊像は、仏菩薩という意味に加えてすでに亡くなった三人の像という意味をも含んでいたと考えられる。そこから、仏像は、第一に現世において釈迦と菩薩に出会うというイリュージョンを、第二には来世でしか会えない物故者に現世で出会うというイリュージョンを生み出す役割を果たしたと考えられる。 法隆寺の玉虫厨子は、宮殿と台座にそれぞれの四面に絵画が描かれている。台座の二つの本生譚と舎利供養図は釈迦への帰依、台座背面の須弥山図と宮殿背面の霊鷲山図は到彼岸へ向けた実践を主題とし、宮殿扉の二天と菩薩、宮殿内の諸仏は、礼拝者と向き合うための造形である。玉虫厨子の表現は、到彼岸を目指す礼拝者に対し範となる行為と示し、その実践を見届けるという役割を果たしている。到彼岸への実践と造形の関係を適切に示す一例である。 法隆寺金堂釈迦三尊像、玉虫厨子に造像者自身の姿はなく、現存する古代日本の仏教美術に造像者の姿をあらわした例はない。このことは、第一に、日本には仏との出会いを像に代替させるという考え方がなかったことを導く。行為する主体はあくまでも現実の人間であり、像はそれを代替しない。第二には、行為する自らの姿を社会に示し、あるいは後世に遺すという意識がなかったことが想定される。行為は、仏に対するもので社会へ向けたものでなく、また今現実におこなうべきものという意識である。これらから、造像者は、真に悟りへ到りたいと願っていたことが想定される。仏教受容期の日本の仏教信者の心性は、きわめてプリミティブなものだったと想定される。

목차

はじめに救済としての成仏と仏像
 1. 救済へのプロセスと救済の場所、そして造像者の表象
 2 人間と関わる仏像
 3. 到彼岸への実践のための造形
 おわりに日韓の造形における現実の人物像の不在
 参考文献
 要旨

저자정보

  • 長岡龍作 東北大学大学院文学研究科教授

참고문헌

자료제공 : 네이버학술정보

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