초록
일본어
本研究は、正徳元年の朝鮮通信使への饗宴において、他の通信使接待饗宴には 見られない舞楽が用いられたことに注目し、舞楽の持つ意味を考察し、新井白石 の聘礼改革の意図は何か、また吉宗の雅楽に対する考え方について検討した。 朝鮮通信使は江戸時代十二回にわたって来聘したが、そのうち第八回正德元年 (一七一一)の朝鮮通信使は新井白石の建議により聘礼改革が行われ、通信使に対 する待遇が変更される。特に国書に使う称号が「日本国大君」から「日本国王」に変更 された点と、通信使への饗宴が、将軍主催により江戸城で行われ、宮廷音楽であ る雅楽が用いられたことは正徳元年通信使のもっとも大きい特徴である。 德川実紀には正徳元年朝鮮通信使の接待のため三方楽人が下向させられ、紅 葉山楽人と共に舞楽奏楽につとめたことが記されている。三方楽所は朝廷の権威を 象徴するもので宮廷雅楽の正統性を持つものと言えよう。第六代将軍家宣時代にな ると、王朝文化が浸透し江戸城の京都化傾向が見られる。新井白石は朝廷の由緒 ある文化を用い、江戸城に住む最高権力者である将軍を、帝王化することにその 目的があったと思われる。それを国内外に発信するために朝鮮通信使来訪の際、国 書に使う称号を「日本国王」号に変更し、通信使への饗宴を江戸城本丸で将軍主催 の元で開催し、朝廷の権威を象徴する「舞楽」を用いたのであろう。 新井白石の聘礼改革は家宣の死後、吉宗により否定され正徳以前の天和の時に 戻される。通信使の接待に用いられた舞楽は朝鮮側からすると、それ以前の能楽よ りは高く評価されているが、以後一度も用いられなかった。 吉宗以前は舞楽、特に宮廷雅楽の正統を継ぐ京都の四辻家管理下にあった三方 楽人を下向させ、朝廷の由緒を持つ舞楽の力を借りて将軍の権威を誇示しようとし た。一方、吉宗は歴代将軍の法会に舞楽を用いるが、注意すべきことは三方楽所に 頼らないで、幕府支配の紅葉山楽人、日光楽人による奏楽を行っている点である。 しかし、家康の百三十回忌だけは他の将軍の法会を縮小したのとは違って、三方楽 人、紅葉山楽人、日光楽人を総動員させ大変盛大に行うことで、東照大権現とし て神格化された家康の権威を前面に出しながら将軍の武威を表そうとしたのである。
목차
一、はじめに
二、饗宴に用いられた散楽と舞楽
三、新井白石の聘礼改革と「日本国王」号変更
四、吉宗政権における舞楽と朝幕関係
五、おわりに