earticle

논문검색

일반논문

誠信交隣의 表象性과 淸見寺의 매화 - 使行錄을 중심으로 -

원문정보

誠信交隣の表象性と清見寺の梅花

성신교린의 표상성과 청견사의 매화 - 사행록을 중심으로 -

진영미

피인용수 : 0(자료제공 : 네이버학술정보)

초록

한국어

1607년에 시작된 통신사행은 1811년까지 총 12차례 이루어졌다. 12차례 통신사행 가운데 京都까지만 다녀온 1617년 사행과 對馬島로 사행 장소를 바꾼 1811년 易地通信을 제외한 나머지 사행은 사행 때마다 통신사가 반 드시 세이켄지를 들르거나 지나갔다. 특히 1607년, 1624년, 1643년, 1655년, 1711년, 1748년, 1764년 사행 때는 세이켄지에 머물거나 잠시라도 들러 이전 통신사들이 남긴 옛 자취와 함께 境內 물상들을 구경하고 그 느낌을 다시 시문으로 남겼다. 따라서 본고에서는 세이켄지와 관련하여 통신사들이 남긴 약 200여 년 동안의 사행록 에 나오는 ‘梅花’라는 경물에 초점을 맞추어, 세이켄지의 매화가 통신사들에게 어떻게 다가왔는지, 그리고 세 이켄지의 매화가 세이켄지의 경물 나아가 세이켄지에 남아 있는 통신사들의 옛 자취와는 어떤 관련성을 지니 고 있는지, 아울러 세이켄지의 매화가 갖는 상징적 의미는 무엇인지 등에 대해 간단히 살펴보았다. 결과, 세이켄지의 매화는 조선과 일본 양국의 誠信交隣이라는 추상적 개념이 구체적 사물로 表象化된 것으로 상황에 따라 때로는 老梅나 老査香梅로 때로는 落梅나 蟠梅 등으로 다양하게 표현되었음을 알 수 있다. 곧, 세 이켄지 경내 매화는 도쿠가와 이에야스의 和好의 뜻이 담긴 老梅이면서, 동시에 세이켄지의 옛 자취[이전 통 신사들이 남긴 陳迹]에 대한 통신사들의 새로운 감회가 서린 老査香梅이기도 하고, 때로는 세이켄지를 방문 하지 못한 아쉬움을 드러낸 落梅이기도 하였다. 그뿐만 아니라 세이켄지의 매화는 시간과 공간을 초월하여 통 신사들이 그리워했던 蟠梅로도 형상화되었다. 역사적 사실이 경물과 함께 어우러져 문학이라는 장치와 결합 하게 되면, 그 사실은 자연과 인공의 힘에 의해 시공을 뛰어넘어 전해지면서, 미적 가치 또한 더욱 상승하게 됨을 알 수 있다.

일본어

1607年に始まった通信使行は1811年まで計12回実施された。12回の通信使行のうち、京都まで行った1617年 の使行と対馬島へと使行地を変えた1811年の易地通信を除いた残りの使行は使行時の度に通信使たちが必ず この清見寺に寄って行った。特に1607年、1624年、1643年、1711年、1748年、1764年の使行時は、清見寺に 宿泊するか、短時間でも立ち寄って、以前通信使たちが残した面影とともに、境内の景観を見物し、感じた ことを再び詩文にして残している。したがって、本稿では清見寺と関連し、通信使たちが約二百年にわたっ て残した詩文のなかに出てくるその時々の「梅花」に焦点を合わせ、清見寺の梅花が通信使たちにいかに近づ いてきたのか、またその梅花がもつ象徴的な意味は何なのか。とともに、清見寺の梅花が清見寺の折々の景 観、さらには清見寺に残っている通信使たちの昔の痕跡といかなる関連をもっているかなどについて簡単に 考察したいと思う。1607年、徳川家康は壬辰倭亂(文禄・慶長の役)により敵国になった朝鮮に和親を要請し、 国境回復を実現し、朝鮮の通信使一行に清見寺を宿所として提供した。通信使たちが江戸に向かう途中、は じめて清見寺に立ち寄ったときにしても、梅花は勿論、境内の景観のうち何一つ通信使たちの視野に入って きたものはなかった。事実、1607年は壬辰・丁酉という二つの乱が終わってから何年も経っておらず、江戸幕 府もまた、成立してからいくらも経っていない時なので、通信使たちは再度の侵攻情報の収集と戦乱中に連 れていかれた被擄人の送還という責務を負いながら、内心では日本への警戒を緩めなかった時期である。こ うした状況で、家康は通信使たちが清見寺に留まっている間、「和好之意」を引き続きあらわし、続いて帰国 の際には自分が留まっている駿河府中の駿府城に通信使たちを招待し、自ら接見しただけでなく、それに前 だち専用御座船五隻を出し、通信使をしてそれに乗り、清見寺の沖である駿河湾を観光できるよう便宜を提 供してもいた。こうした家康の誠信相接の真心により通信使たちの警戒心は弱まり、同時に江戸での国書伝 達という使行の任務をすでに終えた後なので、心にも余裕が生じたからなのか、江戸に向かうときには見え なかった清見寺の境内の景観、なかでも特に家康が幼年時代自ら接木したという「老梅(臥龍梅)」が通信使た ちの視野にはじめて入ってきた。1624年の通信使たちは江戸に向かう12月7日と、江戸で国書を伝達し、戻 って行く12月28日に清見寺に泊っている。副使、姜広重の󰡔東槎錄󰡕に収録されている12月7日の記録を見 ると、年輪を重ね、幹は肌理が荒く、曲がった梅の老木が庭の中を百歩余りほど長く枝を延ばし、枝ごとに 梅の蕾をつけ、今にも咲きだしそうで咲きださない、そればちょうど陽の光の下に老いた龍が横たわり鱗ご とに光を発しているのと似ていると記した。躍動感溢れる描写だ。捉えた景観のなかに感興と生気が溢れて いる。清見寺の「梅の老木」が発する香りは、ちょうど蕾が今にも開こうとする瞬間であったからかも知れな い。また一方では、それに先立つ1607年の通信使行時に呂祐吉、慶暹、丁好寬の三使臣がここ清見寺に宿泊 し、詠んだ三篇の詩が壁に掲げられ以前のまま残っており、そのうえ、この時には上の三人のうち呂公だけ が生存しており、残りの二人はどちらもなくなり、目に入ってくるそれらの詩が人々をして感懐を抱かせた からだろう。姜広重は清見寺の「老梅」を見た瞬間、梅花に感情移入し、鼻先に梅の香りが漂ってきて、その ため清見寺の境内にある梅花のイメージが「老梅」から「老査香梅」へと変わったいる。1607年の通信使行時、清 見寺の梅が徳川家康の「和好之意」をこめた、すなわち「信」を表象化した古木というイメージと「文字香」を表象 化した香りのイメージとしての「老査香梅」へと変わったことがわかる。1963年の通信使行時には、清見寺か らさらに十里ほど行ったところに駅を設置した。駅を清見寺に置かなかった理由について任絖は、1607年の 使行と1624年の使行時、清見寺の施設に痛んだ所があってそうしたのではないかと彼なりに診断を下してい る。こうして、その情状は快くは受け入れられないが、我が国の人たちもまた、自らの行動に慎重さが足り なかったことに恥かしい気がないはずがないと述べている。二つの国が交隣することは恭敬の禮があり、真 心のこもった信があってのことなのだが、それが行き違ってしまったと思われる。両国間の誠心相接が行き 違ってしまうことで、清見寺の景観と先人たちの面影を全く見ることができなくなり、結局そのために、 1936年の使行当時の清見寺に関連した詩文がほとんど残されていない。僅かに残っている金世濂の詩を見る と、「落梅清見寺」と形象化されており、清見寺の梅花を見て描写した「老梅」や「老査香梅」とは詩的雰囲気が 全く異なっていることがわかる。正月は時期的に見て、梅の種類によっては、どうかすると梅花を見ること の出来る時期でもある。そして、詩のもつ許容性により、たとえ梅花が咲いていない状態であっても、梅花 の姿を詩的に形容することができる。だが、金世濂の当時の心境はそうはできなかった。たとえ、梅花が咲 いている時期だとして異国での愁いに沈んだ鬱積した心情では、その上、清見寺を訪ねることもできない状 況では「落梅」がお似合いだったのだろう。1764年の通信使行時に製述官の南玉が記した󰡔日観記󰡕の2月11日 付の使行記録の文脈を見ると、以前の面影-景観-面影-景観の順で続きながら、以前の面影と景観との間に間 隙がなく、自然に混一していることがわかる。以前の面影と景観の混一は「東側の寮舎の潜龍室という扁額は 金佐丞の揮毫で、池に接しており、ひじょうにきれいですっきりしていたと述べているのは、扁額は已に以 前の使行が残した一昔前の面影としての扁額であることを越えて、一つの景観としての扁額なのだ。扁額の 景観化である。このようになると、通信使たちが残した昔の面影は、今や清見寺の境内の景観のなかの何か の異物ではなく、まさに清見寺の境内の景観となったと言えるだろう。そのため、使行時の度に通信使たち は清見寺に行きたく思い、特に1764年の使行時には、早朝から雨がしきりに降り、終日止むことがなく、夜 遅くまで上がらない荒れた天候のなか、雨に濡れることもいとわずに清見寺の境内にある池をめぐりながら 、滝を眺め、花と樹木の回りを隈無く歩きまわったのだ。通信使たちは清見寺之境内に留まることだけでは 満足せず、清見寺を出てからも梅花を懐かしんだ。1624年の通信使行時、副使の姜広重は翌年の1月10日、 守山に泊り、大津に向かいつつ、湖に映った膳素城の天守閣を眺めつつ、清見寺の「蟠梅」を想い浮かべた。 1764年の通信使行時、製述官の南玉は󰡔日観記󰡕の「総記」で「駿河州」について紹介しながら、清見寺の蟠梅 がきわめて飛び抜けており、1811年の易地通信時の書記の李明五は対馬で李顕相、松崎慊堂などと筆談を交 しながら、今回の使行で清見寺の梅と琵琶湖とを見られなかったことが残念でならないと記している。以上 で見てきたように、清見寺の梅は朝鮮と日本の両国の誠信交隣という抽象的な概念を具体的な事物に表象化 したものであり、状況により、時には 「老梅」 や 「老査香梅」に、時には「落梅」や「蟠梅」などにと、多様に表現 されていることがわかる。すなわち、清見寺の境内の梅は徳川家康の和好の意思がこめられた老梅でありつ つ、同時に清見寺の以前の面影への通信使たちの新たな感懐がにじんだ「老査香梅」でもあり、時には清見寺 を訪問できない無念さをあらわした「落梅」にと形象化された。歴史的な事実が景観とあいまって文学という 仕組みと結合すると、その事実は自然と人工の力により、時空を飛び越え、伝わりながら、美的価値または いっそう上昇することになる。終わりに、清見寺の大方丈の前庭を埋めている梅花の香りが、今年六月、ユ ネスコ世界文化遺産に指定された富士山とともに、世界の人々のための平和を象徴するものとして永遠に続 くことを祈りたい。

목차

국문초록
 1. 통신사 사행노정과 세이켄지
 2. 도쿠가와 이에야스의 和好의 뜻과 老梅
 3. 통신사의 세이켄지 옛 자취에 대한 감회와 老査香梅
 4. 통신사의 세이켄지에 들르지 못한 아쉬움과 落梅
 5. 세이켄지의 景物과 옛 자취의 交融
 참고문헌
 日文抄錄

저자정보

  • 진영미 晉永美. 선문대

참고문헌

자료제공 : 네이버학술정보

    함께 이용한 논문

      ※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

      • 7,500원

      0개의 논문이 장바구니에 담겼습니다.