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초록
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儒敎に比べて老莊思想は本場の中國でも、そして韓國や日本でも主流をなしたことがない。しかし江戶時代に日本で老莊思想が大流行をするようになった。思想家はもちろんのこと、芭蕉や西鶴などの文學者たちも流行りのように老莊思想に關心を寄せた。特に眞淵を始めとする國學者は深い影響を受け、國學思想と老莊思想は不可分の關係にあると云えるくらいである。
そこで、この論文では上田秋成が老莊思想から受けた影響を彼の文學作品を通して探ってみることを目的にしている。彼の作品の中でも、<法>と<自然>との對立を主題にしている春雨物語の中の三編、すなわち『二世の緣』と『捨石丸』、『樊かい’』をとりあげてみた。この三編の共通点は人間を拘束している樣な<法>を取り除いた時の、<自然>な人間の姿が描かれているという点にある。
もう少し具的にいうと『二世の緣』では宗敎の問題が取り上げられている。往生への執着に囚われた入定の僧を通して、無欲を說く敎がかえって人間を欲望の奴隷にしてしまう矛盾を告發している。さらに秋成は敎批判に加えて、敎の奴隷になった入定の僧と對照させながら、敎から解放された人間の自由な生き方も描いている。そして、來世への欲望を捨てて自然に生き、欲望も未練もなく靜かに死ぬ姿を眞の悟りの姿として提示している。
人間の自由を束縛するもう一つの<法>として『捨石丸』には敵討ちという社會的 慣習が取り上げられている。本來武士の名分を守るために定められた敵討ちが、如何に罪のない人間を苦しめ、その生を抑壓するのかが暴かれている。そして、すべての欲望を捨てることによって、そういう不合理な制度を超越することができた時の人間の美しい姿も描かれている。<法>を超越して本然の姿を取りした時、人間はそれまでの無意味な生き方を捨てて偉業を果たすこともできるのである。
さらに、『樊かい』には一瞬の欲望によって父と兄を殺した凶惡犯が登場し、<妖魔>から< 心>にわるまでの過程が描かれている。そういう人間の悔悟には、神道とか敎の敎え、また儒敎の嚴格な規範などは全く役に立たない。本來の趣旨に相反して、より惡い道に導くだけである。だから、そのような人爲的な<法>を超越して、自由で自然な人間になった時、人間はむしろ自らの心を治めて< 心>になることができると秋成は主張している。
목차
Ⅱ. 국학과 노장사상
Ⅲ. 아키나리와 노장사상
Ⅳ. 하루사메 모노가타리 에 나타난 노장사상
1. 『부부의 인연』―이상적인 삶과 죽음
2. 『스테이시마루』―<법>으로서의 복수제도
3. 『한카이』―<요마(妖魔)>에서 <불심(佛心)>으로
Ⅴ. 맺음말