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「大御葬歌」四首は、「大御葬歌」という歌謠名からも分かるように、唯の葬歌ではなく天皇の葬歌で、最初から宮廷儀亂としての喪葬でうたわれた歌謠であることを意識させる称でる。『古事記』の所傳は、ヤマトタケルの死によってはじめて「大御葬歌」がうたわれるようになったという。しかし、四首の「大御葬歌」が天皇の「大御葬」においてうたわれていたことは、このヤマトタケルの場合以外にはなく、しかも葬歌の習俗を記紀以外に求めることは極めて困難であるとのことで、喪葬に葬歌が歌われた傳統は否定されている。從來、この四首の歌謠についての實體推定が、樣々な角度からなされてきている。これらの歌が、死者に對する表現としていかなる意味をもっているかという点は、およそ万葉挽歌の前史としての記紀歌謠のあり方にまで關わってくる問題であろう。「大御葬歌」のうたわれた場として殯宮儀礼を想定している論者の多くは、結局、初期万葉の挽歌の場、卽ち万葉挽歌の嚆矢としてヤマトタケル物語の「大御葬歌」を考え、殯宮儀礼の場において挽歌が歌われた伝統が、そのまま『万葉集』卷二の挽歌群に引き継がれ、柿本人麻呂の「殯宮挽歌」に至って頂点に達したという、文學史的系統づけの最初に「大御葬歌」を据えようとする試みである。しかし、歌謠としての葬歌や抒情詩としての挽歌とは、究極的に、その發生の場を異にすることからくる生態的な違いや、それに伴う發想の方法を異にしている。一方の發展が他方に結實するというような、言い換えれば、初期万葉における挽歌の形成が、儀礼の場を媒介として發生してきたものと考える、葬歌から挽歌へという垂直的な文學史的つながりが、果たして正当性を確保できるかという問題を、ここで問い質してみたい。つまりそれは、挽歌史の系譜に關する問題でもある。
목차
2. 殯宮儀礼の場と「大御葬歌」
3.「大御葬歌」の實體と場
4.「大御葬歌」の意味
5. 終わりに