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초록
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本稿は遊女と妓女が登場する映像を分析し、その姿が前近代の文学作品とどのような差異を見せるのか、その意味するところは何かを追求することを目標とする。研究の結果、まず、野談の中で「女中之倜儻任俠人」と記される黄真伊のように、自我に目覚め、自らの能力で以って運命を開拓して行く自我獲得型の妓女の方が、烈女の春香よりは近年映像化される傾向にあると理解できた。ただし、春香も黄真伊も繰り返し描かれるという点から、妓女像は昔も今も大きくは相違ないと言える。 次に、浮世草子で多く描かれた遊女の相対的貧窮意識や義理・一途な想いは一昔前の作品<吉原炎上>ではその価値が結局は無へと帰着されたものの、一昔前の<紺屋高尾>、近年の<さくらん>のように「真の愛」に気づき、新しい世界へと旅立つという、自我獲得型の肯定的な遊女像が持続的に映像化されていると見受けられた。これはいかにもロマン的表象への方向転換であると言えるかも知れないが、<さくらん>の上演時期から鑑みるに、近年映像化される遊女像にこの肯定的でロマン的表象をも一つ加えるべきであろう。つまり、遊女像は昔の否定的表象は薄れ、または否定されつつあると見受けられる。ここに、文芸を通して消費される遊女像への認識の変遷を認めることが出来よう。 最後に、妓女も遊女も本格的に映像化された初期、つまり1950~1960年には妓女像も遊女象も前近代の表象を大きく逸脱することはなかった。しかし、べ・チャンホ監督の1986年の<黄真伊>、五社英雄監督の1987年の<吉原炎上>を境に従来の妓女・遊女の表象は崩れ始める。この時期、韓国は経済成長の真っ只中であったにもかかわらず独裁政権への学生デモが激しく、日本はいよいよ経済のバブル崩壊という時期に直面し、両国とも社会的に混沌としていた時であった。このような社会的混沌と妓女・遊女の映像化の方向転換が両国で同時期に行われたことは、決して偶然ではないと思われる。社会環境の混沌と変化は今や文化の花とも言える映像において、何らかの方向転換を要求したことは簡単に想像し得る。
목차
1. はじめに
2. 日本の遊女と朝鮮王朝の妓女の社会・歴史的定義
3. 現代映像を通して見る妓女像の今と昔
4.現代映像を通して見る遊女像の今と昔
5. 終わりに
참고문헌
