원문정보
A Study on Tokyo experience of Gyengsong in the modern literature
초록
영어
Lee Sang and Pak Taiyuan from modern culture were estranged in Tokyo and Gyengsong. Tokyo and Gyengsong are space of same time zone. The modern in Gyeongsong was space of the 3rd. The modern time in Lee Sang and Pak Taiyuan was not one life order. This is only pose and fashion. Lee Sang wants see the real modern of the West in Tokyo. But he can't see the real modern. Pak Taiyuan did not escape from traditional ethics of Korea. Lee Sang and Pak Taiyuan lived in the modern culture. But they were colony intellectual. They were satisfactory in life of present time and only the possibility of living was not.
일본어
李箱と朴泰遠は近代化になった東京と京城で都市的な暮し自体が作って置いたものから同化されなくて逸脱されていた。また、この人たちは懐疑や不満、そして自分の存在意識の不在の中で葛藤して悩んだ。文化政治を表した1920年代当時日本の植民地支配イデオロギ―は政治とか社会的な談論を生産して置かないようにされて、そのような状況で入って来た日本のモダン文化はひょっとすると植民地支配の論理の中で作られた他者の文化であるはずだった。衣服や言語、生活や文化すべての面でモダン現象が現れていたが、それがその人たちの意識の中で出たモダニティーの発現とは言えない。東京と京城って言う同じ時間帶の空間であるが、結局、京城でのモダンは東京のものでもなく第三の空間になったのである。李箱と朴泰遠にモダンが一つの生活の世界ではなく一つのジェスチャーだし、ファッションに過ぎないかも知らない。そうしながらこの二人のモダンについての認識には違いがある。李箱が東京で絶望したのは東京ごしにある本のモダンの西欧のものが見たかったからである。李箱は'アンドレジッドの(ドストエフスキー論)とか木本高太郎の(二重殺人)、バルザックの(ウジェ二ーグランデ)'など文学について衒学的な討論と社会批判に深醉して、それを知識人の最後の権利であり、幸せだと思った。もちろん朴泰遠は李箱とは違って東京のモダン文化、特に映画に深醉されていたが、それを受けて認識するのは朝鮮の伝統的な倫理の意識で逸脱できなかった。朝鮮のモダン・ボーイ李箱と朴泰遠は現在モダン文化の中で暮しているが、その人たちは他の国に支配される植民地の知識人であり、ルムペンであり、インテリゲンチャであり、貧乏の中で自足して自衛すて暮しながらそれを一つの浪漫として受けて暮したのである。
목차
Ⅱ. 이상의〈失花〉에 나타난 동경
Ⅲ. 박태원의『小說家仇甫氏의 一日』에 나타난 경성
Ⅳ. 맺음말 : 동경 너머의 제3의 공간 지향
【참고문헌】
<要旨>
